なんもわからん

さっき作った

劇場版ハイスクール・フリートを考えたかった


いえーい、みんな劇場版ハイスクール・フリートもう見た?

ぼくはちょうど1ヶ月くらい前にはいふりのTV版見直してめちゃくちゃハマって勢いで劇場版公開直前にこんな記事書いたりもしたんですけど。
maisankawaii.hatenablog.com
その勢い未だ衰えずなんだかんだ劇場版とかいうドデカイ供給もあるのもあって1ヶ月間だいたいずっとはいふりの話してた気がしますね。
書籍系のメディアミックスは読んだし艦隊バトルでピンチ!(アプリ版)もマーメイドクラスになったし謎解きもやったしスタンプラリーも行ったしみたいにどっぷりはいふりに浸かってました。

まあそんな近況報告は置いといて劇場版ハイスクール・フリートの話をしましょう。
いつものごとくオタク妄想深読み独自解釈のアレ!

…って思って書き始めたんだけど話がまとまんなすぎたのでまとめるのあきらめてオタク脳内垂れ流しな感じで供養。

そんな感じでネタバレ全開で行くので見てない人は劇場に見に行こう!



劇場版ハイスクール・フリートって結局何の話だったっけ?

いきなり締めみたいなのからはじめますけど劇場版でやった話、沢山ありますけどテーマに絞って一言で言っちゃえば宗谷ましろを主人公にした話ですよね。TV版もいろんな話やりつつ全体としては岬明乃1人の内面の変化を一貫して描いていて劇場版は宗谷ましろが主人公と言っていいでしょう。
主題としても結構シンプルで目指すべき目標の再認識・艦長(副長)とはなんぞやって感じの話だと思ってます。シンプルか?なんかドンパチやっててうおお!ってなって最高な映画ですけどそのへんの最高な部分はおいといてちょっとそのへんの話について突っ込んで行きたいと思います。

ただわりとシンプルなテーマを膨大な登場人物との対比や設定で描いてるのがはいふりなので、最後のましろの選択につながる要素をゴリゴリ深読みしていきましょう。

海の仲間と家族の話

まずは家族の話をさせてください。

TV版ではこの"家族"という文脈は岬明乃の主観で使われ、艦長である岬明乃と晴風船員の関係性を示すものであり、敵に回った学生たちを示すものであり、さらには海で暮らす人々…に限らず全ての守るべき人々を示す、と3つの文脈で使われました(最後の1つは劇場版に出てこないし正直怪しいけど…この辺は前のTV版記事で考察したやつ)。
この3つの文脈は岬明乃の家族・両親が既に海の事故で死亡しており、その代替となる共同生活で生まれた疑似家族という要素と、家族同然として共に両親を亡くしたもの同士として施設育ち、そして別の家に引き取られた知名もえかという存在からの拡張、そしてブルーマーメイドを目指す学生として、海で救うことができなかった両親と対比した守るべき人々という3つの要素で定義を読み解くことができます。
TV版ではこの岬明乃の哲学である『海の仲間を家族と定義し、守る』という主張に晴風船員全員が共感し、行動するという様が描かれました。


さて、劇場版でも家族が重要なテーマとして扱われますが、この"家族"の文脈が岬明乃の主観だけではなく宗谷ましろの主観としても扱われ、それは岬明乃の哲学としての家族とは別の文脈を持ちます。
宗谷ましろは岬明乃と異なり家族が存命で、宗谷真雪、宗谷真霜、宗谷真冬・つまりは全員が(元)ブルーマーメイドでかつ艦長であるという文脈があり、それは彼女が目指すべき目標、劇場版の主題である宗谷ましろにとっての艦長という存在です。

作中でスーザン・レジェスが兄弟の話をして宗谷ましろに対して母を意識させるシーンがありますが、このときの回想で宗谷家3姉妹がブルーマーメイドになる前の、ブルーマーメイドを目指している頃の様子が描かれます。宗谷ましろにとっての母・姉という家族のイメージがこれ、「ブルーマーメイドになるもん」、目指す目標という象徴なわけです。
この同じ場所で寝食をともにしブルーマーメイドを目指す家族・3姉妹の様子は同じく寝食をともにしたシロミケスーに加えて寝食をともにしブルーマーメイドを目指す(別の職目指してるやつもいるが…)晴風船員の構図にも当てはまるんですね、疑似家族。
だからこそ劇場版では目指す目標・艦長・ブルーマーメイドたる宗谷真冬とその部下たちのプラント制圧シーンが描かれ、1人で飛び出して解決する真冬との実力差を示す劇場版ラストの晴風船員の支援が不可欠だったスキッパー特攻であり「でもそれは今じゃない」につながる一つの要素となるわけです。
宗谷ましろが目標としていた"艦長"の形は仲間たちに助けられる艦長じゃなくて1人で特攻できる姉だったという見方もできるんですよね。単艦で武装勢力を一掃する母も要素としては近いか。


ちょっと脱線しますがこの家族を目標・ブルーマーメイドと見る文脈が劇場版のなかで宗谷ましろ以外にもあって(むしろましろより直接的な話で)、それが知名もえかと宗谷真霜の会話なんですね。ここで母親・ブルーマーメイドの話をする知名もえかと宗谷真霜の会話が対比要素としてかなり面白くて、真霜の目標であったもえかの母、そして真霜の目標であった真霜の母、という流れなんですけどここで話を障害物航走後のましろともえかの会話に戻してもえかの目標とする姿は母ではなく姉なんですよ。これはかなり唐突なワードでわかりにくくはあるんですが、この姉のくだりで当然ましろが想起するのは自分の姉なんですが、もえかにとっては明乃のことだと思われます(漫画版はいふり16話で幼少期の明乃がもえかに対して「私をお姉ちゃんだと思って頼って」というシーンがある)。真霜との会話に戻って「私も海にいるみんなを守りたい」、この『私も』の意味をブルーマーメイドである母の話だけで取るのではなく明乃に助けられた話ともしてみると、晴風に救われた武蔵、守ることができなかった船員、そして劇場版では晴風を守る武蔵と全然違う文脈が見出だせてなかなかバキュンじゃないですか?
この辺の話、別にましろの最後の選択につながるわけではないですけど目指す目標の妙なすれ違いというか構成・関係性の複雑さ、単純に艦長副長を疑似家族における父と母と見るだけの構図からは見えてこない面白さがありますよね。


この目標としての家族の文脈に追加して、もう一つ劇場版における、宗谷ましろの家族には重要な文脈が示されています。それは距離です。
劇場版では宗谷真雪、宗谷真霜、宗谷真冬という3人の(元)ブルーマーメイド・艦長がそれぞれの別の場所での戦いを受け持ちます。つまりもともと家族として共にあった存在が別々の離れた場所で連携するわけですね。
この構図が先程の目標の文脈とあわせて宗谷ましろにとっても目指すべき艦長の姿、すなわち将来的に現在の仲間・家族である岬明乃から離れ、別々の艦の艦長同士として連携する未来の図とも取れるわけです。

この別の艦・別の場所で信頼しあって戦う構図は劇場版においてかなり意図的に描かれていると思っていて、例えば納沙幸子とヴィルヘルミーナ・ブラウンシュヴァイク・インゲノール・フリーデブルク(フルネームで書き始めたの後悔してるから適当に略そうかな…)のつながりであり、岬明乃と知名もえかの関係であり、もっというならWDとブルマーもそうだし海賊のプラント組と要塞組だってそうで、特別なことではなくさらに狭義でくくっちゃえば艦橋とスキッパー、伝声管を通じた会話とかもそう…いや流石に脱線しすぎてきたかな。
これを可能にしているのが信頼という要素で、SOUND ONLYのおっさんも真霜くんを信用してOK出すし他校の大和型艦長たちも知名もえかに従うわけです。

距離の要素に関しては意図的に様々な形として描かれてはいるしオールウェイズ・オン・ザ・デッキのくだりにも関係はしてくるんでしょうけど岬明乃と宗谷ましろの関係・距離がどうなるか、に関しては劇場版の段階では今じゃない、で答えにつながるわけではなさそうですね。2人の将来の無限の可能性くらいに適当な感じでどんな距離間になるんかな~とか対比妄想して遊ぶと楽しそうです。


この家族の距離を保った信頼に対して反対の要素を描くための存在がスーザン・レジェスで、彼女は母・兄弟という家族と離れつつも、父という家族を探し近づくために動いています。海賊リーダーと遠隔での連携に失敗するのもかなり象徴的ですね。
そして晴風の仲間(家族)になりたいと距離をつめてきて、岬明乃・宗谷ましろと共にいることを求め、ましろ達もスーに対して「友達は一緒にいるべきだ」と共にあることを願います。
この辺なんかはどストレートにラストに繋がるセリフですよね。艦長副長ではなく、友達として共にありたいみたいな。(あえて言葉では語らないもののましろが意識し続けた艦長という役割の象徴である艦長帽を捨てた明乃とここまでひたすらシロちゃんとあだ名で呼び続けたにもかかわらず"副長"という艦長のそばにいる立場で改めてましろを呼ぶ明乃の2人の意識の対称性…バキュンだね…)

この距離の遠さと近さという真逆の関係性を解釈する上でのスーの記号的要素として"子供であること"がメインで描かかれていて、大人は離れていても大丈夫だが子供・友達はまだ近くにいるべき、これをプロであるブルマーとプロになる前の学生たちという視点でも見ていくと最後のましろの判断も補強できると思います。

ミケモカなんかは既に両親が死去しているのと施設時代から別れを経験しているので他の学生と比較するとかなり精神的には"大人"、あるいは"当たり前の家族の視点が持てず子供の立場に立てなかった子供"なのもましろの判断に口を出せなかった理由でもありそうで対比の面白さがあります。(この辺はTV版11話)

スーと晴風・明乃ましろを仲間として繋ぐ要素が食事として何度も描かれるのもはいふりらしいですよね。
TV版からミーナの歓迎会・メイタマのカレー・シュペーとの交流なんかも仲間・家族の距離を詰める要素なので。

艦長と副長・役割の話

さて家族の話はこのくらいにして本題の艦長と副長の話に行きましょう。
前項で宗谷真冬という艦長像については説明しましたが、当然この劇場版において艦長の形はそれが理想の形で正解という描かれ方をしているわけではありません。
宗谷ましろが目指すべき先達として、大和型の艦長と副長という先輩たちのあり方も出港後のシーンで描かれます。

大和の艦長と副長である宮里十海と野村進愛は、副長が自分の判断で指示を出し、それを艦長がたしなめるという形で描かれます。
次に信濃の安倍亜澄と河野燕、これは大和とは逆に艦長が出した方針に副長が反対する形です。
最後に紀伊の千葉沙千帆、野際啓子。これは艦長のコメントに対して副長が懸念案を出す形ですね。

このように違う形の中で、形は違えどどれも艦長と副長のどちらが欠けても上手くまわらない、お互いが必要不可欠な運用として描かれています。
テアとミーナも一応先輩だしこの枠に入れてもいいかもですね。艦長副長の記号としてはよくわからんが…まあお互い不可欠なのはそうだろ…。

この中では、現在の晴風の艦長副長たる岬明乃と宗谷ましろの形であえて言うなら一番近いのは紀伊の艦長副長ですかね?
風呂のシーンでましろは「艦長の思いつきに具体案を出すのが副長の役割」といい切ってますけど先輩の艦長副長見てると別にそれが正解ではないのは明確ですよね。
とはいえ実際劇場版の前半では、屋台の行列・劇場のスクリーン・野宿のシーンなどでどれも明乃が方針を決めてましろが具体案を出す形で問題解決が行われます。
ただ陸だといい感じに艦長副長で連携できてたましろですが、出港後のましろって作戦立案後のはちゃめちゃ艦隊バトルではココちゃんとよくわからん漫才したのと水深の報告したのとスキッパー特攻しただけで先程言った副長の役割らしいことやってないんですよね。まあこれは晴風船員全員に見せ場を作る必要があったという部分で割りを食った部分もあると思いますが…。だからこそラストの艦長としても副長としても(ましろの持つ艦長像副長像としては)未熟という判断に説得力があると見てもいいかもですね。

ただこの誰かがアイデア出してそれに対して(むしろ明乃が)具体案を出すって運用の形自体は使われてて、西崎芽依のアイデアからの爆雷投射ヒーハーラムだったり知床鈴のアイデアからの超ダブルクロス号だったりですね。艦長の意図を読み取る、に関しては「敵は潜水艦ではありません!」であったりまだましろは甘いところが描かれてますよね。いやあれだけの指示で動ける立石志摩や応急員の2人がおかしいと言ってしまえばそうなんだが…。
なのでぶっちゃけましろの言う「艦長の思いつきに具体案を出す」という役割は艦長副長という縛りでなく柔軟に艦橋要員で回すことが可能(意思・運用方針決定において艦長と副長の役割を変わりにできる要員がいるという意味で)…というより要塞突入後は明乃がむしろましろの言う副長の役割(具体案を出す)をこなしてるんですよ。これは何かっていうと陸ではともかく海ではましろが他の艦に行っても運用が回る…いや、作戦はちゃんと立ててたし流石に穿ち過ぎなのでやめておこうか…。

艦長と明乃・信頼の話

先程の距離や役割の話とも一部被りますが、劇場版で描こうとしてる晴風に残る理由に不可欠な部分があって、それが複数人での連携、特に他人に任せる行為の危険性・難しさという要素ですね。

例えば障害物航走ではましろが魚雷を見逃したことで直撃喰らったりとか、水上無差別合戦で3人だけに頼ったら負けたりとかそういうのです。
で、完全に個人競技の図上演習ではましろが活躍できてる。図上演習、当然作中でも説明されてる通り不幸・自分の弱さを認めて逃げずに向き合う、がメインテーマではあるんですけど、ここを他船員との連携要素がないから活躍した、という視点でみても面白いと思います。単純な机上の指揮能力だけで言えばましろには艦長の器があって、じゃあ今ましろが艦長になるに足りない要素は何かという問題提起ですね。
図上演習に関しては運という要素を"悪運が強い”に昇華している真冬との対比もましろの将来像を思わせて好き。

で、競闘遊戯会が終わって実戦突入後の描写でましろにはない異常な能力を持つ艦長として岬明乃・宗谷真冬・知名もえかという3人が描かれる。
先程ちょっと話したとおり明乃は部下と連携して変なアイデア出すし、真冬は部下を置いて(信頼して)率先して前に出れるし、もえかは明乃への異常な信頼でヤバい判断ができる。
で、今までのましろにはできなかったであろうこの3人の艦長の”強さ”の要素をまとめて「明乃を信じる」という文脈で実行してるのがスキッパー特攻なんですよね。
装備を組み合わせて率先して突撃して不幸は明乃の幸運がカバーすることを信じるっていう。
図上演習での不幸と幸運、不幸のカバーの文脈との対比。
で、この辺が艦長としてのましろって記号で読んでもいいと思うんだけど、艦長としての仕事をするにはまだ明乃の助けが必要→まだ早いって構図でも見れると思うんですよね。

あと何度出てきてますけど真冬の率先して前に出る行為がまさにオールウェイズ・オン・ザ・デッキの意味(この文章、いまいち正確なニュアンスがつかめないんですけど海軍の格言的なやつで率先して上司が動くことで部下もついてくるからとりあえずデッキに出ろ的なニュアンスでいいんですよね?)に近い。

ましろのスキッパー特攻に明乃の艦長像があるっていう点に関しては、TV版でのスキッパー特攻はもちろん"不幸を最大限利用する"ましろの思想を明乃が読み取って船員全員で共有する(急に目の前に瓦礫が落ちてくるのは不幸要素だけど、それを明乃の機転と指示がジャンプ台に変える)構図にもあって、これはTV版で明乃の思想を船員全員で共有した話にも近い。つまりここでも明乃と同じことをしている≒艦長としての学びを得ているわけですね。

あとましろが明乃と同じことをする、についてはもろに風呂のくだりで時津風の艦長副長に「一緒にいると似てくる」で言われてますよね、正反対の育ちと性格を持つ榊原つむぎと長澤君江がこれを指摘するの好きだし結局ため息がハモるのもお前らも似てきてるじゃねえか!ってなって好き…この2人がいると『家族と同じものを目指す必要はない』まで見えてくるけどまあ流石にここをましろの決断につなぐのは劇場版で言及ないしこじつけ感が強いかな。

結局劇場版ハイスクール・フリートってどんな話だったの?

なんか要素が多すぎて全然まとまらないのでこのへんでとりあえず締めようと思います。
とりあえず劇場版、だいたい全シーン・全要素がラストのスキッパー特攻とましろの決断を描くためにあるんじゃないかなって見方で見てたら「このシーンいる?」って思ってたシーンが全部必要に見えてきてめっちゃ面白くなって来た気がするので、このへん共感してくれる人が増えたら嬉しいですね。

ましろ、TV版からは確実に成長はしてるんですけど劇場版の中で成長したかっていうとそうでもないと思ってて、劇場版開始時点で強さは既にあってただ答えを出しただけなのが良いですよね。
なぜなら成長した結果の決断っていうのはどうしても正解になってしまうので。ましろの決断が正解か間違いかわからないままEDに突入するのがいいんだよな。彼女たちの戦いはこれからも続いていくので。

そんな感じで~。

おわり