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さっき作った

プロセカ『カナリアは窮境に歌う』感想・読解みたいなやつ

カナリアは窮境に歌う』感想読解書くぞ!

雑感

基本的には寧々が頑張ってステージ成功しましたという話ですね。
主な見どころとしては「寧々というキャラクターのステージ・歌に対する泥臭い想い・努力・ハングリー精神」、「歌という他メンバーがついていけない技術を語る上での他メンバーとの関係」といったところでしょうか。

話としては比較的シンプルな構成ですが、寧々のステージにかける情熱、そして前キーイベ『天の果てのフェニックスへ』(2023/03/11~)から続く劇中劇、30周年記念公演「ハッピーフェニックス」のステージ描写は『天の果てのフェニックスへ』に引き続きステージ/演劇という芸術の面白さ・演技の面白さ・そしてその中にある歌の意味合いをしっかりと感じさせてくれる描写で、演劇という題材を取り扱う上でこれ以上ないものを見せてくれたと思います。
というわけで見ていきましょう。

maisankawaii.hatenablog.com
前に書いた『天の果てのフェニックスへ』の記事も貼っておきます。
ワンダショにおける30周年記念公演がどういう立ち位置のステージとして描かれたのかみたいな話をしてたような気がします。

寧々にとっての「歌唱」の崩壊

さて、今回のイベントの導入は寧々が自信を持っていた「歌」が演出家に否定されるところから始まります。

(歌だけは青龍院さんも認めてくれて……、わたしの得意なもので、わたしの武器なんだって)

寧々はクールな性格に反して歌には真剣なキャラクターです。今回のイベントでも引用された初期イベントの『聖なる夜に、この歌声を』(2020/12/20~)は青龍院櫻子の歌を聴いて自分の歌に感情演技が足りないことを認識し、それを今までの寧々にはなかった必死の努力を描きつつ克服することで櫻子に自分たちを認めさせることが描かれました。
また、今回のイベントで登場した風祭夕夏とのイベント『マーメイドにあこがれて』(2021/08/20~)では歌によるアドリブでトラブルを乗り切るなど、寧々にとって歌は過去の経験に裏打ちされ、また最も情熱を持つ自分にとっての武器として描かれています。

寧々の夢は『絶対絶命!?アイランドパニック』(2022/06/20~)で語られたように世界で歌うミュージカル女優になることであり、その夢を叶えるためには歌だけでなく司や青龍院のような演技力を身に着けることが不可欠です。『天の果てのフェニックスへ』では2人の演技力に圧倒される寧々が描かれており、その2人に影響を受け演技力を磨いていたのですが、その練習において演出家に演技力は認められ、歌が否定されたというのがこのイベントまでの流れとなります。

ここを読む上でポイントになるのは寧々の肯定された演技は別に手放しで褒められた評価ではないというところですね。寧々の主観として「演技は認められたが歌が否定された」という読み取り方をされていますが、演出家の評は「演技は、悪くなかった」「歌は、今のままでは駄目だな」であり、演技は及第点としての評価を貰えたという意味合いでしかないでしょう。
これは、寧々の役である「臆病なカナリア」役は歌による見せ場はあるにしろあくまでサブキャラクターであり、歌以外のシーンにおいて司のリオ役や櫻子のフェニックス役ほどの演技力は要求されていないという一面は正直あるのでしょう。サブキャラクターはあくまで舞台装置であり、そしてカナリアの舞台装置としての役割である「歌」こそを演出家は重視しているために歌に対するダメ出しが出たのではないでしょうか。
寧々は司や櫻子に対抗心を持って演技力を磨き努力していましたし、もちろんその努力が実を結んだ結果として寧々の演技力は成長し、彼らとの距離は縮まり、それは彼女の夢に対する努力としてはとても素晴らしいものなのでしょう。しかし「このステージにおいては」演出家はさほどそこを重視していません。客観的に考えて同じサブキャラクターとして舞台に立った類やえむの演技力は司や櫻子はもちろん寧々に及ぶべくもないと思われますが、それでもこのフェニックスステージは成立したわけですからね。

――、それって……私の歌が、この劇を壊すかもしれないってことですか……?

そして歌に関しても、演出家は寧々の歌を単純に技術不足と否定したというよりむしろ寧々の歌に魅力があり過ぎる、すなわち個性が強すぎるからこそ、演出家はこのステージにおいて寧々の歌を否定しなくてはならなかったという意味合いはあるでしょう。まあそれも歌の技術といえば技術なのですが…。
この演出家の指摘は「歌い方の癖」と寧々に解釈され、あとで夕夏に指摘されるように自分の声質に固執しすぎていたという話なのですが、それは要するに歌において役に徹することができていなかった、という意味ですね。これは歌においてキャラクターという役に入れていないという意味だけではなく、演出・舞台装置としてのカナリアの役割に入れていないという意味合いです。
「キャラクターの理解・役に入り込むこと・心情を正しく理解すること」はここまでワンダショの、司のストーリーの課題としてひたすら書かれていたものです。そして寧々は「臆病なカナリア」というキャラクターをかなり理解しそれを演技として昇華できています。作中で説明されたように、カナリアが最初に歌うシーンでのカナリアの心情は「好きなように歌う・自分の気の向くまま、楽しく」です。司は役のキャラクターと自分のキャラクターのギャップによりキャラクターの心情理解に苦しんでいましたが、寧々と「臆病なカナリア」というキャスティングは逆に「寧々の心情に合致しすぎている」んですよね。だからこそ演技としてキャラクターを改めて作る必要がなく、歌から寧々のキャラクターが漏れ出てしまい、結果として歌う時の演技と歌っていない時の演技に差が生まれている。寧々の課題となったのは今までワンダショのストーリーで描かれてきたキャラクターと共感する心情理解でなく、演出家のいう「劇の全体像を捉える」視点なわけなんですよね。この辺の話はこのイベのサブテーマである「ワンダショの他メンバーが参考にならない」にも連なっているかもしれません。
フェニックスステージキャストによるオオワシと魔女とフェニックスの歌唱シーンにおいてキャストとキャラクターがしっかりと分離して評価されていることからもそれは伺えます。

まあ要するに遠回りになりましたが言い方の問題であって寧々に足りないのは結局演技力ではあるんですよ。セリフだけでなく歌においてもしっかり演技・キャラクターと舞台の理解を維持しろという話です。

それはそれとして歌を否定されたという事実は寧々にショックを受けます。そして櫻子や演出家の言葉通り「歌の癖」を探るわけになります。

ミュージカルが苦手な人で、『お芝居の中で突然歌いだすことに、すごく違和感を覚える』って言う人がいるけど……

結論としてそれは先に述べたように歌唱に演技が載ってないという話で、それはあっさり夕夏に教えられるわけなんですが、そこにたどり着くまでのなりふり構わない過程には鬼気迫るものがありました。

どんな小さなことでもいいんです。アドバイスをもらえませんか

そしてその歌に対する貪欲さは問題点である「歌の癖」の改善に留まらなかったというのが素晴らしいですよね。
この話の構成であれば「歌の癖」を改善したらそれをステージで披露して公演成功としても良かったはずです。
しかし今回のイベントストーリーは今回の寧々を悩ます問題点となった歌の癖の解決は見せ場としてではなくさらっと回想で流されているのかなり攻めた構成ですよね。

これはこのイベントが「寧々の歌唱の課題」ではなく「寧々の歌に対する想い・真剣さ」を描いたストーリーであるからに他なりません。
自分のアイデンティティである歌という技術を否定されても逃げずに真剣に、しかし成果の出ないゴールの見えない努力を続け、否定されてもそれでも少しでも今下手でも一歩づつでも上手くなりたいという気持ちで歌った寧々の歌を聴いた憧れの人である夕夏からのただ一言、「すごく上手になった」。歌と努力と人生の肯定、反転。否定の否定。これなんだよな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

すごく成長した。……たくさん努力したんだね

このイベントで徹底的に自分の歌に向き合い悩んできた寧々を描いてきたからこそ、その迷走ともいえる自分の歌の全てを見直す姿勢が描かれていたからこそ、それだけ歌に対する情熱と努力があったからこそ夕夏は寧々を認め、成長したいという想いに応えることを選んだんですよね。
だからこそ今回問題になった「歌の癖」だけじゃない、夕夏が寧々に叩き込むのは寧々が努力してきた歌についての「全部」になるんですよね。歌に対する自信の崩壊と再構成、圧倒的成長…。

ワンダショというメンバーの限界

さてもう一つ、今回のストーリーには寧々の歌と並行して描かれるテーマがあり、それがワンダショという居場所の限界です。

今回のイベントストーリーで、寧々が抱える歌の悩みについてワンダショの他メンバーはいいアドバイスができず、寧々に応援のメッセージを送ることしかできませんでした。
そして寧々の歌が抱える問題もワンダショで公演をしているだけでは明らかにならなかったでしょう。
寧々の悩みを解決するヒントになった夕夏とのコネクションをつないだのも櫻子という外部のメンバーですし、そもそも寧々に演技力を磨く必要があるという刺激を与えたのも櫻子やフェニックスステージの役者たちでした。

特に私は、演技だけじゃなく歌についてもエキスパートよ?……あなたも知っているようにね

ワンダショの中で公演しているだけの今まではそれでも問題はなかったのでしょう。しかし世界で歌うミュージカル女優になるという夢に向かって歩みだした寧々にとって、今回のイベントで描かれたような外部からの刺激と成長は不可欠です。

公演終了後、司と寧々は外部からの刺激を受ける重要性と夢を語り合います。それはワンダショという居場所だけではもはや夢を叶えるために成長する場としては足りないという話です。

わたし、今回の公演で、もっともっといろんな場所で、いろんな人と一緒にお芝居したいって思った
えむくんは、もしもふたりがワンダーステージを出たいと言ったら……ついていこうとは思わないのかい?

そしてそれを見る類はえむに2人を追わないのかと問いますが、えむはそれを短い一言で否定します。えむは今の自分の想いを伝えるときは言葉をまとめずにしゃべる傾向がありますが、ここで一言で否定したということはえむはこれについて類に問われる前からずっと考えいつ聞かれても笑顔で即答できるように決めていたということの示唆に他なりません。えぐすぎる。

今回技術面で寧々の力にはなれなかったワンダショメンバーたちでしたが、それでもメッセージでの応援で寧々の心の支えとなることはできました…という部分をワンダショという居場所の『価値』としてどう評価するべきかですよね。確かにそれは仲間との関係として必要かもしれませんが、過去の周り全てを巻き込んで大きくなっていくようなワンダショという居場所のパワーをまた見せて欲しいところです。

披露劇中劇『ハッピーフェニックス』の中で、”限界”を超えたカナリアの歌の働きによりリオとフェニックスは別れを否定し、共に立ち向かい全てを勝ち取る道を選びました。
さてワンダショという居場所の”限界”、ワンダーステージを守りたいというえむの夢といずれ世界に羽ばたきたい3人の夢という別れを否定し両立できる道があるのかどうかという感じでどうでしょう。

早く上がって来なさい。私のところまで

おわりに

いや~スポ根!

そんな感じで~。