なんもわからん

さっき作った

『超かぐや姫!』 超構造読解考察メモ

私は『超かぐや姫!』が引用する『竹取物語』の意味を理解した(誇張表現)のだが、
これ濃すぎるし文章で説明すると10万字超えそうなので、
基本的には自分用メモとして記す。

特に彩葉軸(後述)がどのような描き方をされていたかはインターネットでは言及が少ないが、ちゃんと面白い部分でもあると思う。

昔書いた普通に他人が読める記事はこちら。(書いた当時の考察はちょっと甘い)
maisankawaii.hatenablog.com


前提

・本編や竹取物語の謎を解くことや正しい解釈をすることが目的ではなく、「製作が竹取物語の要素の何を魅力に感じ、その要素・テーマをギミックとして本編に落とし込んでいたのか」を脚本の構成から読解・考察することを目的とする。
・大まかな構成を理解する上で竹取物語の引用は作中で説明された要素で十分であり、各要素は各シーンの意味やキャラクター、アイテムのモチーフ・テーマとして作中ですべて示されているが、各要素の対応を理解するには細かい原作の文脈が必要となるため、その説明をする。
・「細かい原作の文脈」について参考とする竹取物語について、児童書の「かぐや姫」や映画「かぐや姫の物語」などは今回の読解に必要な要素が意図的にカットされていると思われるので注意したほうが良い。竹取物語の流布本を基本的には前提とする。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

『超かぐや姫!』超基本構造

竹取物語の要素を抽出し、再現し、改変することで『超かぐや姫!』となる。

改変する竹取物語の要素とは

バッドエンドである。

この作品でかぐやが物心つき会話が可能になったところで、この作品が、キャラクターが何を目指すかはまず視聴者に示されている。
作中の記述としては竹取物語の引用。
「ああ、うん。えー……お迎えが来てー、翁たちが引き渡すまいと戦うも空しく、姫は羽衣を着せられて、地球のことは忘れる。で、帰る」
が該当の箇所である。

これに対する
「え、月に帰って終わり? なにそれ、なにがめでたいの? 超バッドエンド! かぐや姫絶対不幸じゃん! しかも何かいい話風になってるのが余計許せないよ!」
などが改変の動機として示される。

これらを「かぐやをかぐや姫として主人公に見立てた物語」として覆すことを前提とする。(見立てではなく実際にそうであるが)
かぐやが達成するバッドエンドの回避、物語の目的は「ハッピーエンドがいい」である。
これはかぐやと彩葉の物語の終着点をハッピーエンドとするものである。
これは後に説明する。

一方で、この会話で終着点が示されるのはかぐやだけではない。
この作品の主軸はあくまでかぐやをかぐや姫に見立てて彩葉とのハッピーエンドを目指す物語であるが、
サブシナリオとして「彩葉をかぐや姫として主人公に見立てた物語」としても読めるように作られている。
彩葉が達成するバッドエンドの回避、物語の結末は「普通のエンドで結構です」である。
これは彩葉と彩葉の母親・家族関係の終着点をバッドエンドから外しノーマルエンドに乗せることを視聴者に示す。
これも後に説明する。
※嘘EDを主軸のストーリーのノーマルエンドと読む(結構です→結構ではなかった)のは当然として、別の文脈もある、という話

この「普通のエンド」の意味を一般的な視聴者が読み取るには補足が必要である。
ハッピーエンド、バッドエンドは一般的な用語だと思うが、普通のエンド、ノーマルエンドとは、ゼロ年代のノベルゲームでよく使われていた要素である。(監督がノベルゲームの影響を受けていることは下記のインタビューで説明されている)
news.yahoo.co.jp
近年のノベルゲームでは1つのキャラクターのシナリオにエンディングは1つしかないのが普通だが、当時はご都合主義のハッピーエンドと対比する「問題が解決しない」、あるいは「解決するもビター」なノーマルエンドという2つのエンドが描かれるのが流行りであった。(グッドエンドとハッピーエンド、ノーマルエンドとトゥルーエンドのような扱われ方の場合もある。)
エンディングの改変をテーマにした今作において、この表現が出てくるのは、並行世界を前提にしたノベルゲームの文脈を踏まえており、面白い。
「ノーマルエンド」という表記がある以上、必ずハッピーエンドやトゥルーエンドへ続く道も存在するのだから。

この作品のラストは「このお話ハッピーエンドだと思う?このあとすぐけんか別れしたりして?まだまだ分かんないよね」で終わり、「あなたの物語はどう?」という問いかけで終わる。
先に述べたハッピーエンドやノーマルエンドを作中で確定させるものではないし、定義するものではない。
あくまで「受け入れ覚悟するしかない、と決められたバッドエンドもあなた次第で回避することもできる、終わりと思わなければそれはまだバッドエンドではない」までが作中で描かれる作品で、視聴者は「ハッピーエンド」をここで確定させてもよいが、彼女たちの未来は確定していない、彼女たちがこれからどうなっていくのかに想いを巡らせるのも、楽しい読み方であろう。

かぐや姫・竹取物語のバッドエンドが持つ要素とは

この原作(現実)の「かぐや姫が帰る」というバッドエンドには複数の悲劇の要素があるが、
今回は大きく分けてこの4つが『超かぐや姫!』では抽出されていると考えると、わかりやすいと思う。
①子に会えず悲しむ翁と帝、親との別れを悲しむかぐや姫
②地球で得た想い、両親や帝への愛を忘れてしまうかぐや姫
③自分の意思よりも課された義務を優先するかぐや姫
④人間と天人という種族差が生む悲劇

このような要素を整理することで、「かぐやはかぐや姫だったみたい」「かぐやはかぐや姫じゃないよ」といったセリフ・単語が単なる物語を呼称しているのではなく、「何が悲劇でありバッドエンドなのか」「本編あるいは原作のどのシーンに対応するのか」という意味を内包していることを読み取ることができ、作中でその要素を回避していくことをより濃厚な情報密度で楽しむことができる。

竹取物語、超概略

竹取物語のシナリオで私が思う「超かぐや姫!」の読解に必要な要素を抽出する。要素をわかりやすく抽出するため、強烈な意訳を含む。正確な記述は本文を読むことを推奨。

天人であるかぐや姫は地球へ降り立つ。天人には感情がなく、人間には感情があるが、翁や媼に人間の娘として愛され遊び育てられる中で、人間と同じように親への情という「感情」を獲得する。
一方で、翁は親としてかぐや姫に「婚活」という「義務」を化す。それに対し、かぐや姫は、「義務」よりも「感情」を優先し、親と共にあることを選び、翁もその想いに触れた結果、最終的に帝の命令という極大の「義務」よりもかぐや姫の「感情」を優先して共に暮らし続けることを選ぶ。
一方で、かぐや姫は「義務」である月への帰還を強いられる。これに反する「感情」はあるが、これを止めることはできない。同様に、かぐやは地球での暮らしの中で多くの地球人に愛され、帝や2000人の兵士に守られるが、これも通用しない。
そして、このかぐや姫は多くの人に愛され長い時を過ごす中で帝への「あはれ」という成長した人間の到達点としての「感情」を獲得するが、直後に天の羽衣をまとうことで、すべての「感情」と「記憶」を喪失し、人間ではなく天人に戻り月に帰還し、戻ってこない。
残された家族である翁、媼、帝、は深い悲しみを得る。かぐや姫は天人と同じ時を過ごしてほしいと不死の薬を彼らに残したが、人間の特性である悲しみという「感情」を持ったまま永遠の時を過ごすことはできないため、人間として、不死の薬を燃やしその想いをかぐや姫に送る。人間が抱え続けることができない、クソデカな愛情と悲しみは、彼らが死んだ後も永遠に消えない煙として地球から月へと送られ続ける。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

キャラクター対応表(かぐや軸)

・かぐや:かぐや姫
→無償の愛を注がれる子。親への情を得る。食事という感情を知る。遊びの中で感情を成長させていく。義務によって帰還する。
・彩葉:翁・帝
→大人にさせられたもの、家族なしでは生きられないもの、かぐやを守るもの。かぐやを愛するもの。義務よりも感情の大切さに気が付くもの。
・ヤチヨ:月に帰ったかぐや姫、残された家族(翁)
→多くの人に愛され、愛すもの、忘れられるもの、感情を喪失したもの(していないもの)、家族を失ったもの、永遠の時を生きるもの。かつて子供だったもの。子供の姿で彩葉に触れたいもの。
・彩葉とかぐやが作った曲:不死の薬
→別れの前の記憶、笑顔の象徴、もう会えない家族が残した面影。消えない炎。彩葉を生かし続けた歌。ヤチヨを生かし続けた歌。月のかぐやに届く煙。

キャラクター対応表(彩葉軸)

・彩葉:かぐや姫
→かつては無償の愛を注がれていたもの。笑顔の家族の中にあり、家族が壊れ、親から離れ、親を忘れ、実家に課せられた義務を背負い、1人で親から離れ生きていくもの。
・彩葉の母親:翁
→家族(父)の喪失によって深い悲しみを背負い、耐え切れず崩壊したもの。娘を失い、月に送る煙(電話)は届かないもの。かぐや姫に義務を強いるもの。
・彩葉の兄:帝・翁
→かぐや姫を想い続けるもの。かぐや姫を守ろうとしたもの。守れなかったもの。強大な権力を持つもの。幼い頃と変わらずかぐや姫と遊ぶもの。
ヤチヨ(かぐや):未来のかぐや姫
→親から離れ1人で生ききったもの。昔の親子に戻ることを諦めたもの。生ききれなかったもの。
・天人になること:大人になること
→感情を失うこと、笑えなくなること、涙をみせないこと、思い出を忘れること、家族に会えないこと、私みたいになっちゃったんだね。
・彩葉の父が残した曲:不死の薬
→崩壊する前の家族にあったもの、笑顔の象徴、かつてあった家族が残した面影。かぐや姫に忘却されたもの。彩葉を生かしたヤチヨの歌。

要素の反転・回収について(かぐや軸)

かぐや姫と翁・帝は再会しない⇔かぐやと彩葉、ヤチヨと彩葉は再会する。

人間と天人のように異なる種族には、感性の違いがある⇔親子の想いは通じ合って当然である「わかってるっつーの」

労働(月への帰還)という義務には逆らうことができない⇔遊びの中で生計を立てることができる

労働(義務)と遊び(感情の優先)は両立できない⇔分身すればいける

別れた娘への想い、不死の煙は月には届かない⇔届く。
→不死の薬=彩葉の歌、天の羽衣=ブレスレット、富士山=高層マンション

天に帰った存在は感情を失う⇔彩葉の歌により感情と記憶を取り戻すかぐや

離れた家族は忘却の性質を持つ→ヤチヨに絶対に気が付けない彩葉→気が付いてねえねえ待たせるなんて論外よ私を誰だと思ってるの?(ワールドイズマイン)⇔何億回思い出したろう、知らないなんて言わせない、名前読んで私は誰?(Ex-Otogibanashi)

『今はとて天の羽衣着るをりぞ君をあはれと思ひ出でける』(別れて全て忘れてしまう時にようやくあなたを好きになった)→「すぐ好きになったんだ」(今どきは何もかものスピードが速い・まだ遅くはないことの提示)

人間の感情を持ったまま永遠の時は生きられない⇔8000年親子の情を抱え彩葉の歌を支えに生きたヤチヨ
人間に不死の薬・天人の時間は耐えられない⇔8000年の記憶に耐える彩葉
人間と天人は時間間隔の差がある⇔8000年経っても出会ったときと変わらないヤチヨと彩葉の関係・場所・服装

消え、変わってしまうであろう楽しかったかぐやの想い出⇔幼い思い出もヤチヨの中に残っている(忘却・変化の否定)。

残った幼い思い出を再び表に出すことはできない⇔分身すればいける

残った幼い思い出を再び現実にすることはできない⇔身体作ればいける

地上の人々と天人は住む世界も感情も異なる⇔VR世界と現実の世界の差を埋める研究

消える楽しかった地球の思い出⇔忘れられないパンケーキ(すべてに打ち勝つ欲求・感情の超克、人間の強さ)

要素の反転・回収について(彩葉軸)

かぐや姫と翁・帝は再会しない⇔昔のようには戻れないが、彩葉は母親と再会する。

天人となったかぐや姫は、感情を失い笑うことはない⇔大人にさせられ義務を背負う彩葉は子供のように遊ぶ中で、子供のような笑顔を取り戻す。

別れた娘への想い、不死の煙は月には届かない⇔届かなかった電話は届く。

親に決められた義務(婚活・月への帰還)を遂行して生きるしかない⇔親が決めた進路を否定して自分の感情を優先することができる。

かつては人間同士として楽しくすごせた家族も、感情と記憶を失った天人になってしまえば重なることはない⇔あの頃の想いは、歌は、家族の笑顔の記憶は、長い時が経って変わってしまっても、ヤチヨの中に残る幼いかぐやの想いのように、表に出すことができなくとも、確かに二人の心の中に今は見えなくとも残っているはずである。親子の情というものは、出会った瞬間に無条件で生まれ、永遠に消えないものであるのだから。

かぐや軸と彩葉軸の連携

説明するうえで2つに分けたが、この2つの軸の物語は、独立した物語ではなく、相互・複合的に作用するようになっている。

かぐや軸では親子の無償の愛が生まれること、子が母親に愛されることへの渇望と、共にあり笑いあう親子の様子が描かれる。
彩葉軸においてそれは描かれない・慎重に扱われるが、かぐや軸の物語があることで視聴者に幼い頃の笑顔の彩葉のカットを見せることで「かつてはそれがあったのではないか、その想いは消えていないはず」と対比的に思わせるようになっている。

逆に彩葉軸の物語で、彩葉がどのような選択をしてきたか、どのような覚悟をもって生きたかを描くことで、「かぐやが月に帰らなくてはならない」という実家に残してきた果たすべき義務の理由を想像させるようになっている。
特に、親から離れ1人で決断して生きる彩葉の力強さは、地球で8000年の時を過ごし、自分の生きる道を見つけ、彩葉だけでない、人々の中で過ごしていくヤチヨの要素につながる部分なので、注目してほしい。

そのほかの要素メモ

「再解釈・再構成」(情報の再定義は脳内麻薬が出やすいので、ドパガキ向けの要素である)
・かぐや姫→超かぐや姫!→かぐや姫
・父の歌→Reply→Remember→子守歌
・8000年の歴史→ツクヨミ
・バルコニー→天守閣
・かぐや姫→かぐや(命名・誕生・親子の成立)
・かぐや→かぐや姫(義務の遂行)
・かぐや→ヤチヨ(別れ、忘却、種族の違い)
・ヤチヨ→かぐや(消えない想い、親子の情、不死の煙)
・大人→子供(遊びの大切さ、感情の優先、自己の優先、笑顔の復活)
・子供→大人(本心を隠すこと、義務を背負うこと、感情を出さないこと)
・着ぐるみスキン→ノースキン(隠した・失った笑顔の再獲得)
・ワールドイズマイン:男女の歌詞→親子の歌詞
・ヤチヨのエモートの涙→Ex-Otogibanashiの汗に隠れた真実の涙→Replyの涙(かぐやもヤチヨも(彩葉も)基本的に泣かない性質を持つが、彩葉と共にいれる喜びのみで泣く→いれる・いれない悲しみで泣く→いれる・いれない喜び・悲しみで泣く)
・忘れたかった思い出→忘れたくない思い出
・悲しい別れ→ハッピーな卒業
・1回限りで…→禁断のエンディング"二度打ち"→もう1回!
・魂だけの存在(電子生命体、物語のキャラクター、電子の歌姫、アニメのキャラクター)→受肉する未来
・忘れてもいいよ→全部聞かせてよ
・そんな顔しなかったじゃん→だからいつもあんなに楽しそうに笑ってたんだ

RayのMVのアレ何?

原作不死の煙のシーンの反転。
・地球から月へ送る想い。→進路報告。彩葉の親への連絡に対応、実家への義理の遂行のかぐや版
・⇔天人ではなく人としてこの場所で生きていくこと。かぐやを人間にすること。=同じ時間を過ごすこと。
・⇔種族差を埋めること→穢れである人間の体を得ること(かぐや)、すべてを忘れず人と共に永遠を生き続けること(ヤチヨ)

幼い彩葉のモチーフ
・悲しい思い出を受け止め拾い上げること、かぐや軸のヤチヨの救済を彩葉軸にあてはめること。かつて母が受け止めてくれたこと、友人たちがそれを覆い隠していてくれたこと。今が辛くとも未来には必ず光が待っていること(8000年後の再会)。

蛇足

そもそも竹取物語が幼くして親元から離れ、貴族・皇族に嫁いだ義務を背負うべき高貴な女性を励まし楽しませるために書かれた物語という前提(諸説あり)で読むと、めちゃくちゃ味がする。

おわりに

まだまだ書いていないことは多いので、気が向いたら更新する。(たぶん気が向かないのでしない)

『超かぐや姫!』『竹取物語』読解・感想 原作も読んで歴史を感じたぞ!

おいオタク!超かぐや姫!超面白かったね~!
見てない人ははやくネトフリ加入してみてください、予告みて面白そうと思ったなら絶対に損はさせないので。
あとやっぱ予備知識なしで見てほしいので!

youtu.be

この作品ちゃんと誰でも見て一発で楽しめるようになってると思うんで
またオタクが変な映画の解説してるとか思って逃げないで安心してほしいんですけど
オタクな話も面白いんでしましょうか。
というわけで原作、『竹取物語』を軸にしたモチーフの読解がアツいという話をば…。
youtu.be



当記事は『超かぐや姫!』と『竹取物語』の物語の重大なネタバレを含みます!
また、素人が勝手に言ってるだけなので沢山ある解釈の1つくらいの感じで読んでいただければと思います。



原作・竹取物語が面白すぎた!

さて、『超かぐや姫!』には原作となる日本昔話や児童書でおなじみのストーリー『かぐやひめ』、
そして『かぐやひめ』の原作となる『竹取物語』が存在するのは日本人の視聴者であればもちろん把握していることでしょう。
『超かぐや姫!』でも最初に竹取物語のあらすじの解説はされましたからね。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

ただ、後で触れますがこの作中で説明された竹取物語のあらすじ、実際の竹取物語とは違うところがあったりもするんですよ。

ところでみなさん竹取物語の原文って中学校の教科書に載ってる序文以降ちゃんと覚えてます?
オタクなら学生時代に何かのきっかけで1回くらいは読んだことあるんじゃないかと思うんですけど、
私はもうおばあちゃんなので読んだの太古の昔でラストに不死の薬のくだりがあったくらいで『かぐやひめ』とほとんど同じでしょくらいのうろおぼえでした。

これが『超かぐや姫!』見た後『竹取物語』を改めて読んでみたらかなり印象が変わりまして、こんなに面白かったの?って驚き通しでしたよ。
そういう改めて読んでみての原作の面白かった部分と、『超かぐや姫!』の原作再現部分と原作改変部分の面白さ、その辺の話ができたらいいなと思っています。

なんで私はアニメが超面白かったって話がしたいのにその原作読んだら面白かったって話をしようとしているんだ…?でも超かぐ見た後の原作ってマジで面白いから共有したくてさあ…。

おそらく多くの日本人に馴染みがある児童書の『かぐやひめ』はかぐや姫一人にフォーカスしており、翁視点の会話やモノローグが少ないのですが、
原文の方は子供向けの『かぐやひめ』では大幅にカットされている会話劇がめっちゃアツいんですよね。メディアの違いだ…。
『超かぐや姫!』を見た後に『竹取物語』読んだらキャラもセリフも関係性もめちゃくちゃ良くて、かぐや姫と竹取の翁の二人のお互いを想いあう絆や翁の活躍が多く描かれてまして、
『超かぐや姫!』見た後に改めて読んでみるとこれ原作通りじゃん!となってかなり面白いんですよね。
キメの歌(和歌)のシーンもたくさんありますからね、原作竹取物語にもライブシーンあったんだ…。

ところで内容の話からどんどん脱線していきますけど、『竹取物語』って後世の通称で正式タイトルじゃないんですよね。
平安時代には『竹取の翁の物語』って作品名で呼ばれているのが一般的だったという記録があります。
つまりは竹取物語の竹取って竹取の翁、おじいさんのことで、
もともとの竹取物語の主人公もかぐや姫ではなくおじいさんだったんじゃないかという解釈があります。

竹取物語は作者不詳の謎の物語で現存する書物にもいろいろなものがあり、だからこそ後世にいろんなかぐやひめの物語が伝わっている、という幅の広さも踏まえて最新のアレンジである『超かぐや姫!』は誰に向けたどういう作品なのか、に向き合ってみるとまた違う味がして楽しいかと思います。
なんならこの記事で扱ったり皆さんが教科書の序文で馴染みのあるいわゆる「竹取物語の原文」も数ある竹取物語の1つで本家とは違うという見方もありますからね。

ふじかぐちゃんとコラボする彩葉とかぐや

例えば超かぐや姫!ともコラボした富士山かぐや姫ミュージアムに展示されているかぐや姫の物語は『富士山縁起』と呼ばれていて内容もかなり違っておもろかったですよ。

彩葉と疑似親子のモチーフについて

さて、だいぶ脱線しましたが、『超かぐや姫!』の話と絡めていきましょう。
つまりは『超かぐや姫!』の主人公、酒寄彩葉(イロハ)は、原作竹取物語の主人公…かは所説ありますが「竹取の翁」モチーフのキャラという話がしたいわけですね。
竹(電柱)からかぐやを拾い上げ、育て、プロデュースし、帝の求婚から守り、別れを体験する。この辺はもちろん翁のポジションです。
厳密にいうと竹取の翁・媼(おばあさん)・そしてかぐや姫との交流の中で距離を縮めていった帝の要素も複合的に持つキャラとなっているかと思いますがそれはいったん置いておきましょう。

このモチーフの何が重要かと言いますと、彩葉とかぐやの関係が単なる謎の宇宙人と地球人のガールミーツガールにとどまらず、
疑似親子としての関係性としてあり、その関係性が作中で重要な要素となるという話がしたいわけですね。
『超かぐや姫!』での冒頭の子育てのシーンはもちろん、10年後のかぐやのボディ作成→現界にも「産みなおし=本物の親子となる」みたいな要素が読み取れます。
原作『竹取物語』でもかぐやは結婚よりも育ててくれた翁・媼との関係を愛し選びますし、
竹取物語においてこの親子関係を尊ぶというテーマは重要な要素となっているとみてよいでしょう。

そもそも、これ原作を読み返していてとても驚いたのですが、『竹取物語』は婚活が中心にあった作品でありながら、
話の軸としては「結婚」「恋愛」よりも「親子の情」を選ぶという描写が繰り返し描かれているんですよ。
五つの難題のエピソードからかぐや姫にわがままで気が強い印象を持ってる人も多いと思うのですが、むしろ家族で静かに暮らしたいだけの大人しい性格のようにも感じました。かぐやよりヤチヨのほうが印象としては近いかもです。

5人の貴公子のだれかと結婚しなさいと翁に言われたかぐや姫は「相手の心の深さわかんないから心変わりされちゃうと思うよ~」と返して断ろうとするわけですが、

深き心も知らで、あだ心つきなば、後悔しきこともあるべきをと、思ふばかりなり。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

ここ後の展開で結婚よりも翁と一緒にいたいよ~みたいなこと言い始めるのを踏まえると、逆説的になんでも許してくれる心の深さと、絶対に自分を裏切らないという無条件な信頼という育ての親への絆が垣間見えてマジでよいです。
キュートなわるわらべなんだよね~。
これを踏まえての『超かぐや姫!』の8000年で変わってしまったかぐやを見ても変わらず愛した彩葉という消えない絆がまた染みるんだよね~。

というか原作の時点でこの結婚回避願望が「周りと違うマイノリティ」に寄り添う物語として描かれてるのはなかなか面白いですよ。「かぐやだけ、浮いてたんだ」です。

昔、山にて見つけたる。かかれば、心ばせも世の人に似ず侍り

翁の「(かぐや姫は)山で見つけた子で、普通の人とは精神性がちょっと違う(から男女の結婚はできない)」みたいな言及がそれです。
竹取物語におけるかぐや姫って神が人に化けてるみたいな存在で、神は性別がない存在で、感情とかもないはずなんですけど、そういった世間から浮いた我が子の在り方を人として受け入れ愛し育てる翁の懐の深さと、人の肉体を得て最初に生まれた親子の情という愛が揺るがないかぐや姫の絆が、原作からしっかりと描かれているからこそ『超かぐや姫!』にもそれが引き継がれているんですよね…。
この翁とかぐや姫のクソデカ絆、超かぐオリジナル要素だと思っている人が多い気がするんですけどちゃんと原作要素なので!

まあそういう勘違いが起きるほど、こういった社会性を否定し個人の価値観や想いを大事にするという逆張り…キャラクターを描くテーマの使い方があまりにもうまく、これが「日本最古の物語」と呼ばれ、以降の作品に影響与えていったという話も頷けます。社会派作品だ…。

そもそもそういった作品のテンプレが固まる前だからできたという見方もできますが、時代的に全く合わないSF描写といい、作者は未来人ってのも面白いですよね?ねえヤチヨさん。

原作『竹取物語』の翁とかぐや姫の絆のエピソードの1つとして、
帝からの求婚に対して、かぐや姫は「宮仕えするくらいなら翁に官位を与えてもらって死ぬ」と言い、
それを聞いた翁は「偉くなっても我が子が見られないなんて超ムリ限界ギリ」なのでしたということで、帝にかぐや姫は求婚に応えられないことを伝えます。

冠も、わが子を見奉らでは、何にかはせむ。

帝って当時の人たちにとっては絶対に逆らえない神みたいな存在なわけですよ。
それなのに拾った娘のために帝に立ち向かう翁、本当にイケメンすぎる…。

この地位か我が子かみたいな話、地位にこだわった結果距離が離れてしまった彩葉の親子関係や、彩葉のかぐやが去った後に金を手に入れた姿や進路希望を出す姿と重ねてバッドエンドの1つとしてみるのも面白いと思います。あと地球に帰っても親と会えなかったかぐやでもあるね。

ところで求婚断られた帝はこのあと結局かぐやに会いにくるんですが、
その時かぐや姫が影になって消えるんですよ。理解の範疇超えし宇宙びと…。
これ『超かぐや姫!』のKASSEN三次元かぐや消失トリックの元ネタですね。
なんで原作でもSF能力バトルしてるんだ?
『超かぐや姫!』の5人の貴公子瞬殺配信といい、さらっと原作ネタ混ざってるの面白いですよね。

愛され続けるキャラクターとしての「かぐや姫

竹取物語』の帝は消えたり現れたりするかぐや姫(AR映像か?)を見て「かぐや姫マジで人間じゃなかったけど推せるわ」みたいなこと言ってオタクになるんですけど、かぐや姫って翁や貴公子や帝だけでなく、本当に出会う人全員にガチ推しされていて、「いろんな人に愛される存在」として描かれてるんですよ。

翁、心地悪しく苦しき時も、この子を見れば、苦しき事もやみぬ。腹立たしきことも慰みけり。

↑ここ、推し活する彩葉すぎる。

原作ラストの帝軍2千人vs月の迎えのバトルも、帝の権力で人を集めたという印象が強い人が多いかと思うのですが、やっぱりかぐや姫が多くの人に愛されていたからこそかぐや姫を守ろうと人が集まった、という解釈で見ると本当にいいシーンなわけですよ。
その原作要素が『超かぐや姫!』でバーチャルライバーという解釈となってかぐやもヤチヨも多くの人に愛されてるの、人でない情報生命体?と人間の種の垣根を超える本当にいい話で、月の迎えを前に、かぐや姫と共に過ごした多くの人が集まり、惜しまれながら去っていくのもちゃんと原作再現なんですよね。

やっぱオタクの好きなキャラクターって実在しない人間ではありますから、そういう超常の存在が人々に愛される話が好きすぎるんですよね~、この辺はボーカロイド曲が多く使われた映画として、初音ミクと重なる文脈でもあります。

そういった愛されキャラクターの性質があるからこそ、『超かぐや姫!』で地球に降り立ったヤチヨが生きた8000年の間もずっと、FUSHIを通して多くの人々に愛され、そして愛してきたことは想像に難くないわけですよ。

だってあんなにも楽しそうに8000年間の歴史の中で出会った人とのことを語っていたんですから。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

そう考えると、『星降る海』で海の中で楽しげに膨大な魚たちの映像に囲まれ歌うヤチヨの姿も、長い孤独の時間からの念願の再会というイメージだけではなく、苦しみだけではない長い歩みを感じさせて印象が変わってきませんか?
youtu.be
海の底で長い時を過ごす中でも、魚たちもきっとヤチヨのことが大好きで、ヤチヨも魚たちのことが大好きだったのではないでしょうか。
かぐやもカニと仲良かったですしね。
だからヤチヨが魚たちの、和服の、ドレスの、あらゆる時代の要素を背負った衣装を身にまとっているように、パンケーキの大地のように、ツクヨミ天守閣にかつてのタワマンからの景色を重ねたように、ツクヨミという世界の1つ1つ全部の輝きが、かつてのヤチヨが愛した沢山の歴史の一部なんだろうなと思うと、またこの世界が美しく見えてきますよね。

一番大事な彩葉との出会いと思い出を抱えつつも、新たな大事な出会いと思い出と共に生きた8000年も愛しているからこそ、それを捨ててかつての自分には戻れない、「もう、おばあちゃんです」なんですよね…。ファン1人1人を忘れないライバーの鑑…。

「遊び」の要素について

さて、話を翁とかぐや姫の絆に戻しまして、
竹取物語』のクライマックスで月に帰る前にかぐや姫が翁に対して「(月の)本当の親よりもここであなたと遊び過ごした記憶が全部で(大好きだったよ)」みたいな告白するシーンが激エモで好きなんですよね。

かの国の父母のことも覚えず、ここには、かく久しく遊び聞こえて、ならひ奉れり。

原作のかぐや姫はわりかしクール系キャラですけども、翁がかぐや姫生誕かわいすぎパーティ開いて遊んでたという意味ではパリピでもあります。

ここで言及された「遊び」、つまりは楽しかった記憶の大切さの話は『超かぐや姫!』でもキーになっていますよね。

マジのエリートは遊びもおろそかにしないはず
睡眠時間削ってでも遊ぶよ!

どんなに孤独な道のりでも 楽しかったな~って記憶が 足元を照らすよ
この瞬間も 忘れられない思い出にしたいから

ヤチヨ、セリフも歌も全部8000年の重みあって激重で愛しすぎる…。
ちょっと脱線しますが『竹取物語』のかぐや姫が地球にきた理由、「昔の契り(約束)だよ~」とは本人が言ってるんですが、
これについて作中での言及がなく、いろいろな解釈がされている竹取物語の謎の1つなんですよね。

おのが身は、この国の人にもあらず。月の都の人なり。それを昔の契りありけるによりてなむ、この世界にはまうで来たりける。

『超かぐや姫!』の作中の竹取物語ってヤチヨが書いたか話した実話が後世に伝わった形なんでしょうけど、
ヤチヨにとっての昔の契りってそりゃあ彩葉をハッピーエンドに連れてくって約束…という新解釈なわけです。おもろ!

で、話を「遊び」に戻しますが、だからこそこの作品は彩葉とかぐやの『遊び』を二人の間に永遠に残る絆としてずっと徹底して描いているんですよね。
食事だってゲームだってライブだって全部彼女たちの楽しい記憶で、ストーリー上無駄なシーンなんかじゃないと思うと愛さずにはいられないですよね。

原作『竹取物語』ですと天の羽衣着るとそんな楽しさも愛しさも記憶全部忘れちゃうんですが、『超かぐや姫!』のかぐやはハイライト消えて肉体消失しただけで、ちゃんと彩葉のこと覚えてるのはなぜかというのを考えてみるのも面白いかと思います。
というわけでこのシーンのかぐやを読んでいきましょう。

「好き」の告白について

ねえ彩葉、彩葉の顔がとてもきれいでさ、私、すぐ好きになったんだ

さて、かぐやのラストライブの歌の中でのこの唐突な告白、なんでこのタイミングでこの話を?って困惑した人も多いと思うんですけど、これ原作『竹取物語』のラストに月の使者に連れていかれながらかぐや姫が長い時間をかけて距離を詰めた帝に最後に送る和歌との対比になっています。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

今はとて 天の羽衣着る折ぞ 君をあはれと思ひ出でける

要は「今、天の羽衣を着て全部忘れてしまう時に、ようやく君のことを好きになったんだ」みたいな感じで、『超かぐや姫!』でもこの羽衣を羽織る前に「彩葉、大好きだよ」と伝えるのですが、先ほどの「すぐ好きになった」の告白がこの和歌への原作改変、カウンターになっています。「今どきは何もかものスピードが早いんですねえ」だ。原作では3カ月で成長したかぐや姫が『超かぐや姫!』では3日で成長したように、君を好きになってももう遅いと嘆いたあのかぐや姫とは違い、出会ってすぐに好きになったという、「超!」の要素をもって「まだ遅くはない」としてここから竹取物語の後日談、ハッピーエンドに向けて物語が動き出すの、めちゃくちゃイケてますよ。
そんな風に終われるわけ…ないっしょ!

ここが『超かぐや姫!』が竹取物語を否定する、この作品の一番の原作改変要素なのかもしれません。

この作品には素直に「好き」を伝えられないキャラが沢山います。
というかこの作品で純粋な「好き」を言葉で言えてたのはかぐやだけなんですよ。
かぐやの好意に素直に応えない彩葉はもちろんのこと、ヤチヨのことを「推し」としか言えない彩葉も、子供に笑顔を見せなくなった彩葉の母親も、ファンとライバーの距離感から近づけないヤチヨだってそうですよ。親子ではなくなること。「私みたいになっちゃったんだ」です。

「彩葉はお母さんのこと、好き?」
「好き、好きか…どうだろ、わかんないな。そうだね、嫌いになれたらって何回も思ったよ」

この親子・家族の距離を埋めて言葉にできない愛情を伝えて笑顔を作ったのがこの作中のゲームだったり料理だったりを介した交流でもあるんですけど、やっぱりそんな素直に気持ちを言葉にできないキャラクターたちが、「歌」の歌詞の中で素直な気持ち・愛を表現している・伝えているのがこの作品のキモだと思うんですよね。ちゃんと現実でも娘にヘイベイビーって言いな…(ワールドイズマイン)。
それはかつて彩葉から送られた彩葉を支える歌で、泣く子をあやす子守歌で、8000年の想いを込めた歌で、かぐやの配信のための歌で、母親の笑顔と共にあった父親と共に作った歌で、3人で歌った歌で、今のかぐやと共にある歌で…。
そんな歌で心が伝わって、最後に全ての親子の距離が縮まってこの映画の最後が『Ray』と『メルト』の歌詞で締められるの、本当にエンディングの繋ぎとしてイケてると思うんですよね。「伝えたかった事がきっとあったんだろうな」「だって君のことが好きだよ」ですよ。(「今すぐ私を抱きしめて」の方でも好きな方を選ぼう!)

原作から失われたエンディングとMVについて

さて、いい感じに一通り語り終えたわけですが、
日本昔話や児童書として有名でみなさんも触れてきたであろう『かぐやひめ』は、
『超かぐや姫!』で「超バッドエンド」と説明されたように(作中では竹取物語と言われていますが)、
かぐや姫が地球のことを忘れて月に帰って終わります。(少なくとも私が確認した児童書複数冊全てがここで終わっていました)
だから子供の時にかぐや姫の物語に触れてきた多くの人が『超かぐや姫!』での「これはこういうお話なの」という最初の説明に違和感を抱かなかったのではないでしょうか。

しかし、本来の『竹取物語』にはこの続きのエピローグがありましたよね?
かぐや姫がいなくなった世界でおじいさんとおばあさん(あと帝)が嘆き悲しんで帝が「かぐや姫いないのマジ無理しんどい」って歌を一首読んで終わる真の超バッドエンドなんですよ。
有名な不死の薬の話もこの時の一首ですね。不死の薬あってもかぐや姫に会えないなら意味ないぴえんとかいってかぐや姫にもらった不死の薬を月に一番近い場所、富士山で燃やしちゃうんですよね。

逢ふことも 涙に浮かぶ我が身には 死なぬ薬も何にかはせむ

『超かぐや姫!』作中の竹取物語にこのエピローグがないのって、この竹取物語に書かれているのはバッドエンドじゃない、ハッピーエンドへの道のりの途中、”まだ終わってない"の話だと思うのですが、皆さんはどう思いますか?

…とか書いて記事寝かせてるうちにRayのMV公開されてこの原作エピローグ要素もしっかり回収されましたね。
youtu.be

「やっと、ここまでこれたね」です、はい、俺の勝ち!(誰と戦ってるの?)

で、このタケノコを埋めるシーンの意味、「故郷に近いところに置いておこう」みたいなかわいい解釈をしてもよいのですが、これ要するにヤチヨの本体である永遠の肉体を捨てて彩葉の作った滅び=死のある肉体で共に人生を生きていく、という「不死の薬=永遠の命を捨てる」という解釈ができるかと思います。
このネガティブな描写をポジティブに反転させているのはめちゃくちゃ美しい原作再現であり原作改変ですよね。
長い時を孤独に生きるよりも共に生きて彩葉と共に死ぬのが「本当の人間」だろうという。

この描写をしつつも、ヤチヨは不死のまま人々と共にツクヨミの中で生きていくという、カグヤから生まれたヤチヨという人格、という二面性を両面で、人間になることがすべてじゃない、情報生命体として人々の中で見つけた幸福も、8000年の歩みも否定しないでくれるのが本当に優しい話で美しいんですよね。
あなたも、あなたの中で泣いている幼い気持ちも両方助ける、がこの超かぐや姫の物語なので。

©コロリド・ツインエンジンパートナーズ

それでいうとヤチヨのボディなんだから別に捨てなくてもよくない?とは思うんですが、彩葉がかぐやの肉体を作ったように、ヤチヨは月で生まれた肉体ではなく、「ツクヨミ」という肉体をこの地球で自分で作って生きていくことを決めたということなんでしょうね。
親(故郷)から自立して、自分の作った道で生きていく、もこの作品に沿った在り方ではあると思いますので。

さあ、ここまでは竹取物語のエピローグの有名なあらすじ知ってるならみんな読めてると思いますが、
この解釈は竹取物語をしっかり読んでいればもう一段階原作要素が見つけられますよね?(誰目線?)

実はこの記事で先に説明していたシーンなんですが、
原作にはかぐや姫が「死を選ぶ」セリフがあります。
先に説明した、帝の求婚に対しての「宮仕えするなら死を選ぶ」です。

もはら、さやうの宮仕へ仕うまつらじと思ふを、強ひて仕うまつらせ給はば、消え失せなむず。御宮・冠仕うまつりて、死ぬばかりなり

つまり、このタケノコ埋めを人と共に有限の生を、死を選ぶ要素と読むのであれば、それこそが「死を選んだ=求婚に応えた」という迂遠なメタファーが読めるんですよね。原作の帝とかぐや姫のバッドエンドで終わったラブロマンスの、時間を戻しての、求婚に応え人の隣で生きること、の逆転回収としても読めるんですよ。面白いですね~。
この辺の原作終盤の帝のモチーフってもちろん彩葉なんですが、お兄ちゃんが前半の帝のモチーフなのはちょっとややこしいところではありますね…。

おわりに

そんな感じで、いかがでしたか?
『超かぐや姫!』の原作を知ってると楽しめるのはもちろんだと思いますが、
逆に『超かぐや姫!』を見てから原作を読むとめちゃくちゃ面白いですよ、という話が少しでも伝わればうれしいですね。

実は見終わったあと超かぐや姫!の記事書きてえと思って2週間くらいずっと書いてたんですが、
好きなとこ全部書いてたら書きたいことありすぎてこのペースで書いてたら一生書き終わらねえしこんなん誰も読めねえし書いてるうちに超かぐや姫!大ブレイクしてるしこのままでは世間に置いて行かれてしまうと思って竹取物語原作要素に絞って1万字くらいにがっつり削ったのがこの記事です。
一番書きたかった部分は書けたと思うんで結果的にはよかったんじゃあないかなあ。
語りたいこと8000年分ある!オタクも8000年分聞かせてくれよな!

とりあえずこの辺で、対戦よろしくお願いします。

おわりだよ~。

映画『迷宮のしおり』 読解・感想

(C)「迷宮のしおり」製作委員会

※当記事は映画『迷宮のしおり』のネタバレを含みます。

ちょっと私も書いときたくなったので『迷宮のしおり』 の読解していこうかな。

この映画、正直とにかく難解だと思います。
特に前半は見ていて気持ちのいいわかりやすいエンタメ作品でもないですし。
後半にがらっと展開変わってラストで一気に説明されるタイプの作品ではあるんですが、
見ていると後半についていけなかった人や集中力切れて聞いてなかっただろみたいな感想が結構あって勿体ないなって…。まあこの映画長いからね…115分もあるから…。

私はこの映画かなりごちゃついてるのとキャラの性格がそんなに…という感じで、そんなに刺さってるわけではないですし、手放しでおすすめできる作品ではないかなとも思います。
そのモチベーションで記事まで書くのもちょっとなんなんですが、
やってることはかなり考えられた作品だとは思いますし、視聴体験としてはめちゃくちゃ楽しめたのでその辺の面白さの話をできたらいいかなと。
正直もう1週間以上前に見た映画の内容を思い出しながら書いてるのでかなり忘れかけてる部分も多いのですが整理も兼ねて…。

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「迷宮」という題材について

さて、まずはこの作品の大まかなテーマについて考えていきましょう。

『迷宮のしおり』はそのタイトルやキャッチコピー「スマホが割れたら、異世界でした。」あるいは予告の印象からはデスゲーム的な「迷宮からの脱出」をテーマにしているSFパニックサスペンス作品のように感じられるかと思います。
ですが、実際にこの映画を見ていくうちに、そういった作品ではないことに気が付くでしょう。作中でこの世界規模のサイエンスフィクション的な話が栞とSHIORI、ないし自分の深層心理と向き合い、自己肯定につながっていく、ある意味で等身大でセカイ系的ともいえる作品に変わっていくところが面白いところです。
ただ、この辺のテーマの掲示や話の変化・進め方が複数のラインで多角的にすすんでいくので、そこはテーマの着地点を意識していないと(意識したとしても)置いて行かれやすいのかな、とは思います。
とはいえ、このわかりにくさの中にこの作品の魅力が詰まっているので、難解ではありますが頑張って読解したいところではあります。

自分の隠された気持ちに向き合いそれを認めていく、というテーマは創作において使い古された題材ですし、分裂した自己による身体の乗っ取りという要素もメジャーな題材といってよいでしょう。
この映画の巧みなところは、このテーマの表出が「遅い」「わかりにくい」ところ、そしてそれによって表現されるSHIORI@REVOLUTIONという前澤栞の中にあった人格の魅力にあります。

前半の異質なSF要素、迷宮の世界に閉じ込められたパニック、引っ込み思案で地味な自分とは全く違う人物、社会性を否定した非人間的な在り方、共感のできない承認欲求の塊であるSHIORIの存在は、
それが最初は栞=SHIORIだとは思わせにくい、ミスリード造形となっています。

しかし、視聴者はこの映画の中で描かれていくSHIORIの人間らしい一面、現実への執着が描かれるの中で思い出すのです。
この作品における幼少期の栞はそもそも本来億バズ稼ぎを目標に動画をアップするような行動力と向上心のバケモンであったことを。
そして、疑問を抱くのです。過去のその人格を塗りつぶして乗っ取っているのは栞の方ではないのかという問いを。
前半で「栞=正しい主人公・SHIORI=人格を乗っ取った倒すべき悪」という先入観を植え付ける描写があったからこそ、この逆転が成立するのはかなり面白い構成になっています。
このSHIORIの生き様は、わかりやすくいいね、バズとして肯定され、栞の価値観である「他人に否定されないように生きる」においても「他人に認められる生き方」として正しかったのではないかと問いかけていくのです。

そしてこの作品が他人による乗っ取りではなく、人格の「入れ替わり」であることによって気が付くわけです。
現実の栞がスマホの迷宮に迷い込んでいた時に感じていた「現実からの隔絶」「自分の本心ではない人格による身体の乗っ取り」「このまま消え行く恐怖」といった描写は、
そのまま過去のトラウマによって封じられたSHIORIがずっと見ていた光景・感情なのではないかということを。
ここがこの作品によってホラー的表現で描かれる迷宮脱出パートのキモで、栞の脱出への肩入れと共に、SHIORIの「億バズして本物(現実)の存在になる」という想いにより寄り添い肩入れしたくなる、自己中心的で幼稚でギャグみたいな承認欲求の中にある想いに共感し、消えてほしくないと思わせる構成にもなっているんですよね。

で、この視聴者が抱くSHIORIへの好感とリンクして、栞がかつて抑圧し切り捨て忘却していた自分がかつて抱いていた想いの美しさ、自己肯定へとつながっていき、
その分裂した過去の肯定・結合をもって「迷宮からの脱出」というアニメーション表現となっているわけですね。

抑圧と精神疾患・忘却した過去の描写について

さて、大まかな話の構造を整理したところで、個々の要素に踏み込んでいきましょう。

この作品はSFという要素で覆い隠されてされていますが、主人公・前澤栞というキャラクターを精神疾患を持つ人間として描いていることは明白でしょう。
栞の幻聴・幻覚・被害妄想は誰にでもよくあるSNS社会の闇の中で生きる若者の表現としてひとくくりにするにはかなり大げさなものです。
手持ちのスマホを認識できなくなるなど既に日常生活に支障をきたすレベルの症状もあり、精神分裂や記憶障害も併発しており正直一刻も早く専門家の治療を受けるべき状態ではあります。
この被害妄想の精神疾患描写はじっくり描かれすぎてリアルで嫌だったなあと個人的には思いましたが、、後に小森がSNS誹謗中傷の被害者として治療しようとした人々ともつながるものですね。

一方で、この映画は実在する精神疾患というテーマをSFという題材で覆い、「スマホSNSの暴力性の被害者は人格を失いスタンプとなる」という一見コミカルな表現にもしていますね。
これは精神疾患をSFという題材でフィクション的に扱い深刻さを軽減すると共に、SFという題材を精神疾患による幻覚として解釈できるリアルさがあるという相互の関係になっているのはなかなか挑戦的だと思います。
自分の言葉で対話ができない現代社会の闇と、精神疾患としての記憶障害や失語症?のような二重表現は、なかなかに大げさではありますが、面白い対比ではあったと思います。
このスタンプを用いた表現、ホラー演出としては良かったんですが、使い方に関しては正直まとまってなかったかなという感じはありますね。各スタンプは非人間的すぎな一方で森田はスタンプになっても元気ですし、逆に抑圧された過去の想いから生まれたであろうSHIORIや架神傑はスタンプとはちょっと違う立場で物語は進みますし…。

まあともかく、この精神疾患がどこから来たか、という話ですね。
栞に関しては、自分のダンス動画が拡散されたことが迷宮へ入る引き金となったわけですが、
どちらかというとこれは過去に動画投稿した時のPTSDのフラッシュバックという面が強いでしょう。
幼少期の栞のトラウマとは、「投稿した動画が、友達はたくさんいいねついたのに自分は15いいねしかつかなかった」というものです。
ここ、「そんなことで?」と視聴者は皆思ったとは思うんですよ。
幼い子供特有の現実を見ていない無謀な舞い上がりだったと。友人と自分との力量差を見誤っていただけだったと。
なんなら無名な子供の動画に15いいねつくのだって大したもんですし傲慢さすら感じますよね。

しかし、このセリフに対する読解は友人、倉科希星の言により、意味合いが変わります。「いいねは多かったが届いたコメントは栞についてのものだった」、つまりは『いいねは数じゃなくて中身が重要だ』、という話で、栞にとって欲しかったそのいいねは、希星にとってのトラウマであり、栞に対してのコンプレックスを生んでいたという視点の開示ですね。
正直結局希星はこの過去を乗り越えて成長しているので、栞の受けたコンプレックスと同等…というにはちょっと弱いなと思うところではありますが。

さて、ここで終わりにしてもいいんですがもう一つ、想像を巡らせてみましょう。先にも説明したSHIORIの乗っ取りによる「前澤栞は億バズのポテンシャルがある表現者であった」、という証明をもつとこのトラウマは視聴者にさらに面白い変化を見せてくれます。
つまりは『この幼少期のSNSは節穴であり、15いいねは実際に不当な評価であった』という仮定です。
こここそがこの作品のSHIORIというキャラ造形の面白さなんですよ。
この作品にはSF的なギミックとして「なりたい自分の思い通りに世界が改変される」という要素があり、それでバズっただけと結論づけるのは簡単なのですが、
このSF的要素を一旦現実のメタファーとしてなかったものとして「自分の思うように行動した結果、上手くいって現実・社会に認められる」という部分だけ抽出すると、
「等身大で地味な少女がSNS社会で生きる生きづらさ」の話から「素晴らしい表現者SNSで評価されず表現をやめてしまった悲劇」というトラウマのストーリーにも一変する。
この多重構造が栞とSHIORIというキャラクターの2面性によって生み出されるのが実に面白い。
視聴者は現在の栞と希星のダンスを見ているため、幼少期でも希星の方がパフォーマンスが上だったのだろうという先入観をもってしまいますが、
幼少期の山田の告白の絵では、栞と希星の立場が逆転し、栞が前に出る側で希星が大人しい性格として描かれていたようにも感じます。

前澤栞は夢の中でも作曲をしているような根っからの表現者ですよ。
希星に届いたコメントであったり、幼いころからインフルエンサーとしての頭角を現していた希星がパートナーとして認めていたことや、山田に慕われていることからもその魅力やポテンシャルは想像に難くない。
現在においてもその才は死んでいない。ダンス動画を上げれば当然のように鬼バズ、クラスラインの話題の中心です。
その人格がなぜ埋もれてしまったのか、表現をやめてしまったのか。
あなたが幼いころに諦めてしまった才能は、あなたが信じた自己肯定は素晴らしいものだったのではないか。
だからもう一度表現という舞台にまた立ってみないか。
そういった埋もれ消えていった才能への、創作者・表現者賛歌の想いがこの作品に込められていると考えてみるのも面白いと思います。

ちょっとメタな話になってしまいますが、この映画を作った河森監督の作品、大ヒットはしているので評価されていないと言うには無理があるかと思いますが、個人的にはシナリオ面では多角的で非常に難解なものが多く、きちんと理解・評価していない視聴者も多いんじゃないかと私は感じることがあります(何なら私も未だによくわからない作品はあります)。
それを踏まえて現代のスマホSNS社会の闇の話だけでない、1980年代からずっとSNSの評価に晒されてきた監督ならではの視点・表現としてみると、また別の面白さがあるのではないかと私は思います。

さて大幅に脱線してしまいましたが話を戻します。
この作品で彼女たちのトラウマ、想いを抑圧する要素として共通するのはSNS、つまりは「他者・社会からの批判」です。
グループライン、クラスの視線、炎上、道行く人の視線。
作中で幼少期の栞は幼馴染・山田の告白に対して腕をへし折っていますが、これもいわゆる「クラスで噂されると恥ずかしい」のような子供社会からの拒絶とみてよいでしょう。
そして栞はこの事実を完全に忘却しています。ストレスを要因とする解離性健忘症ですね。
つまりは、都合の悪いことを忘れることで、自分を守っている。
栞が忘れた事実は告白されたことなのですが、冒頭で「柔道をしていたこと」がバレたくないとの描写があることから、
作中では描写されていませんでしたが、この事実をネタに「柔道ネタ」で散々いじられ、その記憶と柔道を封印しようとしたことに付随して告白の事実を忘れたのではないでしょうか。
これと同じように、幼少期のダンス・表現・インフルエンサーに対する情熱もトラウマによって夢の中のように忘れてしまっており、ここで封印され解離したその感情がSHIORIという人格を生み出したというわけですね。

さて、この「忘却した感情が蘇り・それと対峙する」という要素は栞だけのものではありません。この要素は栞とSHIORIという存在を通じて他者にも伝播していきます。
栞に出合った小森(架神傑)は炎上というトラウマによって封じた「人々を救いたい」という計画を形を変えて再始動し、自己を否定し過去を失いスタンプとなった森田も過去を取り戻します。
くたびれたおじさんがSHIORIのように「理想の自分」として厨二的なイケイケファッションになってたのは影響受けまくっててちょっと面白いです。
幼いころに見たアニメのロボット・ヒーローのように、「はたらくくるま」のように、人を救いたいという過去に眠らせた気持ちが架神傑と森田の戦いではいきいきと描かれます。
ここで描かれるロボット、アクエリオンセルフパロディは「他者との合体」「消えない想い」等の要素で今作とリンクしているのもよかったですね。
人格と言葉を失ったはずのスタンプたちは森田に感謝を告げ、幼馴染、山田健斗は幼いころの恋心に再度向き合い、友人、倉科希星は過去のトラウマに向き合っていく…(タイミングとしてはここがスタートではありますが)。幼少期に両親にちゃんと向き合って柔道を選ぶシーンとかもそうかな。この柔道の受け身が彼女を救い続けていることとかもそう。
この辺の社会からの抑圧?で失われてしまった「消えてしまった原初の気持ちとの対峙・復活」の連鎖・伝播の畳みかけは、散らかっているな、という印象もありましたが、一方で他人に影響を与えるインフルエンサーという題材とマッチしており、過去の自分と向き合う形での自己肯定というテーマを、SHIORIから栞へ、人々へ、シームレスにつながっていくのは非常に面白く・祈りであり・美しいテーマだったかと思います。

億バズ目標の不自然さと栞というキャラクター

さて、SHIORIを主軸に読み解いてきましたが、この物語は栞が封印し内包してきたSHIORIという感情の擬人化の魅力を受け入れるだけの話ではありません。
栞もまた、彼女の持つ肯定すべき感情の一面で、SHIORIに受け入れられるべき人格である、という話をしましょうか。
その前に、先に説明した幼少期の栞との過去、希星による「いいねは数ではなく内容である」の開示についてもう少し補足を。
これは、SHIORIの「億バズして自分を証明する」へのアンチテーゼでもありますが、
一方で、多数派・社会からの低評価(?)に流されず自分1人でも才能を信じ表現を続けたSHIORIの存在の肯定と読むこともできますね。

そういった意味でSHIORIには「社会・他者への反発から生まれた」という要素はあるかと思うのですが、
個人的にSHIORIが幼少期の抑圧された栞の想いから生まれた人格であるとすると、1点不自然な点があると思っています。
それは、SHIORIが栞の溜めていた貯金を使い込むシーンです。
作中で、そもそも過去の栞が億バズを目指したのは何故でしょうか。
そう、「希星と共に開業するカフェの資金を稼ぐため」であり、栞が貯めていた貯金はそのためのものですね。
この目的が栞の中から消えていないのは本編でもセリフで言及されていますが、SHIORIがこれを認識しているならば、貯金を使い込むのはおかしいし、
その上で億バズを目指すという行為は幼少期の目的と矛盾する、空虚な行為になってしまうわけです。

この矛盾を説明できる考察として、栞が山田のことを忘れたように、SHIORIも希星との想い・記憶を失っている、あるいは封印して認識を都合よく改変していることが考えられます。
栞はスマホが割れ精神分裂を起こす前に裏垢で希星を否定しようとしてそれをやめています。
私は最初、これは単にSNS社会の同調圧力で悪口言うのやめたのかと解釈していたのですが、
この裏垢はSNS社会における書きこみに対比する内面の想いのメタファーとしてみた場合、
友情を否定しようとする想いと、それを思い直して友情を守る相反する想いの2つがあり、肯定する側・友情が勝ったという見方の方がしっくりくるわけですね。
そしてこの2つの想いを「友情を否定するSHIORI」と「友情を肯定した栞」として見ると、ここで分裂して生まれたSHIORIは「希星を否定した人格」としての要素を濃く持ち、友情を認識できない・忘却している存在なのではないか、と考えられるわけです。

こうして考えるとかなり面白いんですよ。
SHIORIは作中で、希星と実際に再会し、「私には希星ちゃんは必要ない」と判断したわけですが、
ここでそもそも希星との友情の記憶・認識が封印されていると考えると、「友情関係ではない、インフルエンサー同士の関係」でもっての判断になってしまうんですね。
その一方で栞は希星との対話の中でその友情を再確認している。
この栞と希星の対話は、裏垢の開示、トラウマの開示、本心の開示、つまりはSNS社会での抑圧されたコミュニケーションとの対比になっているわけですね。
SHIORISNS社会の抑圧からの解放者、本当の自分・過去の想いを蘇らせるものという要素のキャラクターでありながら、ここでは友情という大切な本心、過去の想いを忘却してしまっている。
つまりは本心でのコミュニケーションができていたのはSHIORIではなく栞の方で、ここには「他者との交流」、つまりはSHIORIが否定してきた「社会・他者」の肯定がある。

この二面性がこの映画のラストシーンのキモなんですよね。
かつての大事な想い、自己表現を失っていた栞。
かつての大事な想い、友情を失ったSHIORI
どちらも欠けているからこそ、お互いを肯定する必要がある。
ここに単一の「過去の忘れた想いを肯定する私」というテーマだけではない面白さがある。

これを端的に表現するのが山田の告白シーンですね。栞だけでない、SHIORIの存在も肯定すると、どちらも好きだと。

この告白は、奇しくも、栞がかつて「友人の前で告白される」という恥辱に耐えきれずそれを否定・封印した記憶でもある。
状況としてはもっと悪いですよ。全世界の前での公開告白なわけですからね。

ここは、例の「いいね数だけが評価じゃない」の要素みたいなところはありますね。
「私の一面を見ていいねしてくれる1億や架神傑よりも栞とSHIORI両方を受け入れてくれる1人の告白の正しさ」であったり。

さて、ここでもう一度過去の告白に戻って考えてみましょう。
栞が「友人の前で告白される」、という行為に耐えられなかったのは、「希星や他人に噂され・否定されるかも」という不安からでしょう。
しかし、この映画を経た現在の栞には過去の栞と違うところがあります。
それは希星と本心をぶつけあい、裏表のない本心のコミュニケーションができたというところですね。つまりは希星からの否定に恐れる必要はもはやなく、だからこそ耐えられるというわけです。
「世間・社会全体の評価・関係よりも私の想い、よりも私とただ1人の友人という社会の想い・関係」という2段階否定の構成なんですよね。
この辺の「2人の関係の修復」という文脈、「栞と希星の和解」は「栞とSHIORIの和解」という要素のメタファーでもあります。
ここがリンクしていることで、あなたの想いの中に相反する2つの想いがあったとして、そのどちらをも否定せず受け止めるのが、この抑圧された社会の中で生きていく上での自己肯定というテーマにつながっているのではないでしょうか。

そういった意味で、最後の告白の返答は「今はまだ」なのかもしれませんね。否認・忘却をここまで描いてきたこの作品から生まれる新たな手段、保留。
栞とSHIORI、社会で生きることと自分を貫くこと。どちらをも肯定した自己肯定の物語ではありますが、
最後に山田という新たな外の社会関係に向き合うことを選ばず告白を否定し、しかし保留という形で未来に託したのは、
幼いころの想い、希星と共にあった想い、そしてSHIORIの想いと共に生きること。完結した社会・世界から、少しづつ、外の社会へ届けていく。
希星のように、あなたの全てを受け止め、肯定してくれる人がいつか現れ、山田にも、社会にも向きあっていけたらいいねという、祈りなのかもしれませんね。

おわりに

読解とはいいつつも、作中で描写がない部分を独自解釈した要素が多くなってしまったかなとは思いますが、
その辺の解釈幅の広さは意図的にとられている作品かと思いますので、
いろいろと自分なりの答えを考えてみるのが面白い作品なのではないかと思います。

正直言ってあらゆる要素を重ねに重ねた構成で、近年の引き算で作るシンプルでわかりやすい作品とは対極の本当に難解な作品だと思います。
私がこの記事で説明したことを全部読み取ってほしいというよりは、
どちらかというと理解不能と諦めずに、その「難解さ」「多角性」について考えさせられる、この作品の視聴体験の面白さが伝わればいいなと思っています。

面白い解釈できたら私にも聞かせてくれたらうれしいです。

そんな感じでどうでしょうか、おわりだよ~。

2025年のオタクはまったやつ振り返り

今年もやるわよ!

去年のはこれ
maisankawaii.hatenablog.com

ブレイブソード×ブレイズソウル

中二病は治す、ではなく救う』株式会社グリモアのソシャゲです。(これグリモアのラジオで毎回コールされてる会社のキャッチコピーです、好き)
鍵を開ける勇気を手に入れるRPG(公式ジャンル)。
4月に10周年を迎えました。
去年の記事でも書いたゲームなんですけど2025年のテーマを語る上で欠かせないこの作品から…。
2025年のオタク研究テーマ、中二病です。

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PVも去年の記事と同じ13章予告PV(2年前)で、でもこのPV好きすぎるので…。

去年このゲーム開始してメインストーリーは最新まで突っ切ったんですが、さらに2025年数か月かけてほぼ10年分の細かなストーリーまで追わせてもらいました。
去年の記事で「序盤クソつまんなかったけど途中からバリありえん面白い」みたいなことを書いたんですが、中二病について1年間真剣に向き合った結果、ちょっと「中二病」という作品の面白さの理解が深まって変わってきたので皆さまへのご報告となります。(この記事はなんの記事なんだよ)

いきなりこき下ろすんですけど、私はこのブレ×ブレのストーリーについて、よく「面白すぎるけど原液すぎる」「適正のある人間にしかおすすめできない」という話をしていて、基本的には同じくグリモアがシナリオを書いているソシャゲ(というか同シリーズ姉妹作)『リバースブルー×リバースエンド』の方を同コンセプトでちゃんと人間が咀嚼できる状態までパッケージングされている作品としておすすめしているんですよ。
何がそんなによくないかっていうとブレブレのシナリオってとにかく現実味と人間味に欠けるんですよ。
ご都合主義すぎる展開、記号的すぎる人間味のないキャラクターによる一方通行のコミュニケーション、浅い正義の敵キャラクター、…。
はっきり言って現代のオタクって9割以上がキャラクターと関係性、そして共感のオタクですよ。
そういったオタクにとってこの作品のシナリオは共感できるキャラクターとは程遠く、間違いなく"浅いシナリオ"として切り捨てられかねない。
何なら私もこの作品のそういったところを最初は「出来がよくない」と断じていたところがある。

でも違うんですよね、そもそも中二作品ってそうじゃないんです。
現代の中二作品のイメージってなんだと思います?「テンプレート作品」だと思ってる人が多いんじゃないですか?
これって要するに中二病の世界観を「既知」の文脈で解釈してるわけですね。

でもさあ、違うだろうがよ。中学二年生の時、いやもっと原初の話だよ。小学生幼稚園の時に感じた剣や魔法、ファンタジーに対する憧れってさあ、そうじゃなかっただろうがよ。
現実世界とは違うロジックで動くもう一つの世界、世界から外れたキャラクター、「理外」への理解こそが中二作品の面白さであって、テンプレの面白さとは真逆でしょうが。
このロジック・テーマを描くうえで、現実味と人間味って「既知」の文脈でありはっきり言ってノイズなんです。現代のオタクが得意とする受け手の共感、つまり「既知」の再発見の面白さは「理外」に対する理解の面白さをメインに据える中二病作品の持つ面白さと相反するんです。

だからこそガキは厨二キャラに熱狂するんですよね。
現実味がないから、自分と違うからなんですよね。
幼少期の子供にとって他人って全部理解できない存在なんですよ。だからこそ生物は生き残る上で「理解できない存在を理解しようとする」という学習に対して絶大な快感、中毒性が得られるようにできている。この感覚が残っているからこそ中二作品が楽しめる。
まあそもそも中二病作品って単語自体が「大人の観賞に耐えない」意味合いの蔑称ではありますけど、そもそも弱くなったのはこの感覚を失ってしまった大人の方じゃないんですか。
逆に大抵の他人を理解してしまった大人が、フィクションにおいてキャラクターのパターンを把握してしまったオタクが、この快感を再び得るためには、共感しやすいリアルなキャラクターではなく、人間味に欠ける現実味のないキャラクターの方が優れているんじゃないんですかかってのが今回したかった話なんですよ。

この発見、かなり自分の中で衝撃的だったんですよね。
キャラクターの精神性は作りこまれれば作りこまれるほど、説明されればされるほど、リアルであればあるほど、共感できればできるほど優れた創作だとこの長いオタク人生で思っていたし、実際最近の作品はそうでなくては評価されない傾向にあると思います。
でもそんなことはないんですよ、陳腐なキャラクターであればあるほど、そうはならんやろと思わせられるストーリーの中の方が向いている、美しい輝きってのはあるもんなんです。
「予想外」の面白さはむしろ私の得意分野で知ってたつもりだったんですが、この面白さが「キャラクターの作りこみ」と「共感ベースの読解」との相性が非常に悪い、というのはこの原液みたいな粗削りすぎる作品を読み込まなければ気が付けなかったかもしれない。
だからこそこういう文脈の面白さを2025年は語りたくなってたんだよね。いや2025年もう終わるタイミングで初めてこの話してるけど。
オタクが良く言う「説明しすぎるな」は結局この話に通ずるところではある。説明セリフがよくないとかだけじゃなくて芝居だろうが演出だろうが設定だろうがキャラだろうが説明されるのは視聴体験の楽しさとトレードオフだという話、読解のオタクはみんなある程度認識はしてるだろうけど、意外なところとのトレードオフになってるんじゃないかってのはもっと考えていきたいね。
結局キャラクターの作りこみが上手い作者って話作るのも上手いからたぶん勘違いしちゃってたんだよな。作りこみあった方がいいって。

さて、ここまでが前置きでようやく2025年のブレ×ブレの話を。
ブレブレはいわゆる兵器少女モノで、その「人」と被造物である「魔剣」の絆を描いためちゃくちゃ面白いシナリオで見事に完結を果たした、というのは去年したのですが、その完結後の新章がまた新たな視点で描かれていて、主人公が各地の王と交流し「人」を統べる「王」としての倫理観の違いに振れ成長していき、そして直近の新たな展開ではこの世界を統べ「神」たちが被造物である「人」と振れあい成長していき、そしてその中で人の被造物である「魔剣」に回帰する、というめちゃくちゃ難解なテーマを描いており、この中で一本筋が通っているのがとにかく人間をやめるだの神をやめるだの魔剣の異常種だのの話ばっかやっててとにかくこれでもかと既存の枠から外れることを肯定することに真剣なんですよ。

そしてそれを描く上でとにかくシナリオにおける人との共感・相互理解を描かないことが徹底されている。
いや、ちゃんと描かれてはいるんですけど、10年やってきてずっとお世話になってきた仲間たちのことを「目的が違うから将来的には敵対するし頼らない」でお互い全然信頼しない一時的共闘であることが執拗に主張される。
すごすぎるんですよ。ソシャゲなのに全然全員でイクゾォのノリにならん。
それでいて他人を愛さない作品かというとそうでもなくて、「自分の愛のためには全世界を敵に回す」の一方通行の愛の話は全てのキャラでずっと行動原理の根幹にあって全くぶれない。ALICEシリーズのシナリオ本当によかったです。
やっぱ中二文脈においてコミュニケーションは相互ではなく一方通行のみ、天上天下唯我独尊、理解者とか不要なんですよ。この面白さをここまで徹底できてるゲーム、なかなかないと思います。そんな思想の強すぎるゲームでございました。

本当に最新シナリオ楽しんでるんですがこのゲームのシナリオの話してる人ほぼおらん、ゲーム内チャットとか盛り上がってるし熱心なファンは多いゲームだと思うんですがみんな攻略と性能と萌えの話しかしとらんくて…。ぼくは応援してまーす。(一方通行コミュニケーション)

リバースブルー×リバースエンド

ほぼ同じブランドの話を2年連続で続けるのも何なんですけど続けてこっちの話も。
ソド×ソド、ドラ×ドラ、ブレ×ブレに続く魔剣伝承シリーズ4作目(と公式は言ってないんですがまあどう見ても続編なので…)となるソシャゲ、リバ×リバです。魔王として運命に抗い続けるRPG(公式ジャンル)。1周年おめでとう。

youtu.be
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ハフバPVと1周年PV、マジで好きすぎる。過去振り返りPVが好きになれるのってプレイヤー目線でゲームめっちゃ楽しめたからでうれしいし、言っちゃなんだけどこんな人を選ぶゲームを「私の好きをとにかく詰め込んだゲーム1年間続けられたよ!」って堂々と見せびらかしながら語ってくれるPVを公式が出してくれるの、マジで良すぎるんだよな。私の好きなゲームは作り手にも誇らしく思っていてほしいだろ。

私って色々なソシャゲとにかく全部触れたいタイプで、ある程度ストーリー追いついたらまあ大体わかったしまた今度ストーリー溜まったら読むよ(大体読まない)って判断してサクっと離れちゃうことが多いタイプなので、未だに毎月のストーリー更新がめちゃくちゃ楽しめているのは本当にうれしいです。
正直ここ10年くらいこんなにハマれたゲームなかったかもですね。

いろんな作品に触れてるオタクって本来は「自分の好きな作品に出合うためにdigしてる」わけで、「ずっとdigしてて面白い作品には沢山出会えてるけど、最盛期に匹敵するハマり方の作品に出合えてない」状態が何年も続いてる時って、「面白い作品をdigること・ジャンルを体系的に把握することが最終目的のオタク」の自認になってしまうし、そうなるとどうしても自分の「オタクとしての死・劣化」とまではいわないにしても変化を意識しちゃうんですよ。だからこそ、ようやくちゃんと胸を張って俺は好きって言えるソシャゲにサービス開始初日に出合えたことが、何十年も色んなゲーム掘ってきたことが報われるのが本当にうれしい。
まあケチつけるなら散々待たされた5章後半はボリュームちょっと物足りなかったというか一気に実装してほしかったですけども!でも6章めちゃ良かったからノーカンにしとくので!(?)

この作品、上で散々語った一方通行の相互不理解のぶつけ合いや枠を外す面白さって中二病シナリオの面白さはそのままに、騎士団・チームでのシナリオも主軸になっており、キャラクターの関係性をしっかり描いてくれてるので、ちゃんと現代のオタクにも咀嚼できる作品となってると思います(誰目線?)…いやちょっとまだ味が濃すぎるか…?
毎月人類が滅ぶ規模のド派手でドでかいシナリオを最高の演出でガンガンやってくれるブレーキの無さで1年以上続けてくれてるの本当にうれしいよ。

来年の周年記事でもまだハマってられたらいいなあ、どうだろうね。

機動戦士Gundam GQuuuuuuX

1月に劇場先行公開、4月~6月に放送されたアニメです。ガンダムの新作だ~。
劇場版初日に軽い気持ちで普通のアニメ先行くらいのつもりで見に行ったらガチで人多くて人気にびっくりしたな…。
youtu.be
このMV初めて見たけど振り返りできてめっちゃよいね。

さて、2025年のテーマ、中二病作品への理解を圧倒的に進めてくれたのがこの作品の存在です。

先ほど話した「世界・仲間からの共感性の否定」「一方通行のコミュニケーションとすれ違いの面白さ」「自己の再定義」「社会の崩壊とリアリティラインの崩壊」、そしてその全ての根幹にあるまっすぐな愛・友情。
それらが精緻に計算しつくされて描かれており、ここがめちゃくちゃ面白かった。
見れば見るほどなぜこの作品が相互不理解と一方通行のコミュニケーションを描き、それをどういう見せ方すると面白いのか、というのがわかり、目からウロコが落ちまくっていた。

異世界転生という最新テーマをあえて現実の社会からの離脱と成長というテーマの説明に逆に重ねるという逆転構造もよかったし、これがフィクションへの改変というメタ的なテーマにも重なるのもうまくて、とにかく多重的な構造で見れば見るほどいろんな要素が組み込まれてて本当に読解が気持ちのいい作品だった。
maisankawaii.hatenablog.com
4話見て書いた記事は自分では結構気に入ってるんだけど思ったよりハネなかったな…。
劇場版1~3話の感想ふせったーが鬼バズりしてたから結構いけるか?と一瞬思ったんだけどまあいつもの感じだったね。
なんかもう伸びないのに慣れすぎて最近はもう死後評価されればええやろくらいの気持ちで記事を書いているよ…。

というかさっきから散々最近のオタクにはわからねえだろうが…みたいな老害クソトークを繰り返してるのはこの面白さが全然伝わらなかった…というか一番面白いところを欠点として批判してる人の声がデカくてクソムカついてたからなんですよね。
よくないよくない、オタクはつまんないオタクじゃなくてアニメと自分だけ見てた方がいいね。

こちら、終末停滞委員会。

逢縁奇演による電源文庫のライトノベルです。
これも去年めちゃくちゃ熱く語ったにもかかわらず連続で書かずにはいられなかった作品の1つ。
今年は1月に3巻、4月に4巻、12月に5巻が発売されました。筆が早すぎる…。

youtu.be
こーれがマジでアツかった。3巻がヤバくてェ!って思ってたら4巻もヤバくてェ!いや5巻もヤバくてェ!
みたいなテンションで本当に飽きさせなかったね。毎巻最新刊が一番面白いだろ…って思わさせてくれた。

作者曰く、毎巻ジャンルが違うんですよこの作品。
3巻が『総力戦』4巻が『大冒険』、5巻が『SFミステリ』。
やっぱ最近のライトノベルって、どうしてもWeb連載作品の文庫化だとかWebマンガの流行だかの影響か話の区切りがふわっとしてる作品が多くて、そんな中でかっちり巻ごと・章ごとにメリハリ効いたコンセプトがあって新鮮な楽しさを届けてくれる作品、貴重なんですよ。
まあでもそこについては正直この作品に対する褒めポイントというよりはもうちょっと最近の作品に頑張ってほしいところだよ…。(誉めるときに回り下げるのやめな)

いや~よかったなあ。3巻を上野公園で読んで、5巻を読んで真鶴行って林の中歩いて星を見て…。
maisankawaii.hatenablog.com
この聖地巡礼?記事の考察は作者から言及いただいたので結構うれしい。

1巻1ページ目でこの作品絶対面白いだろって確信して1巻時点で周りに布教しまくった作品がちゃんと面白さを継続してくれてるの、本当に自分の目が腐ってなかったことの証明で、嬉しいね。来年も期待!

魔法少女魔女裁判

7月18日にAcasciaからリリースされたノベルゲーム、公式ジャンルは魔法議論ミステリです。
8月頭にプレイしました。これほんとおもろかった。
youtu.be


この作品、ミステリなんで何言ってもネタバレになる気がするんであんま内容の話はしないんですけど、
公式での露悪的なコンセプトに対するインタビューの話が結構印象的だったので引用させてもらいます。

30~40代のゲームファンからすると、この作品のコンセプトを見て「中二病っぽくて痛々しい」と感じたり、ちょっと既視感のあるものに感じたりするかもしれません。でも、それは我々がさまざまな作品に触れてきたからで、それに対していまの10代の子は『魔法少女まどか☆マギカ』、『ダンガンロンパ』、『シュタインズ・ゲート』といった名作を知らない、見たことがないという子も多いと思うんです。それぞれ世に出てから15年くらい経っているので、世代がまるっと入れ替わっているんですね。

 ですから僕らがそれらの作品から受けた衝撃やリスペクトを、今度は『魔法少女魔女裁判』でいまの若い子たちに伝えることができたら……と考えていました。
www.famitsu.com

このインタビューを読んだ時、私は制作側の意図とは真逆の印象を受けていたので驚いたんですよね。
どちらかというとまどマギやダンロンにはなかった、そして私が作中で見たかった2025年の今だからこそ描けた展開がこのゲームにはあったな、という新鮮さを感じることができていたからなんですよ。
なんなら結構我々30~40代のノベルゲームプレイヤーにちゃんと受けてた印象ですし、近い感想持った人結構いたんじゃないかなあ。
やっぱちゃんといけるよな?中二病

Limbus Company

『Lobotomy Corporation』『Library of Ruina』の1人用ゲームでお馴染みProject Moonが出した韓国ソシャゲですね。罪悪共鳴残酷RPG(公式ジャンル)。
youtu.be
3年前のティーザーPV、今見るとめっちゃ味がある…。
私はプロムンのゲームはロボトミーが難しすぎてクリアできずに積んでるくらいのプレイヤーだったんですが、
リンバスのフェスガチャに憎しみの女王と絶望の騎士(ロボトミーで人気のあるアブノーマリティです)が実装されるよって話でXに流れてきた画像がめっちゃ良かったので、おっじゃあ最近プレイヤーよく見るし今SCPアツいし触ってみっかくらいのノリで始めたんですよね。

誰?ゲーム始めたらこんなキャラ存在しなくて笑った(このゲームのガチャから排出されるのは全員『存在しない世界のキャラ』です)

これがゲームもストーリーもめーっちゃ面白かった。
まずゲーム部分が、めちゃくちゃ骨太!画面を埋め尽くす膨大で難解な説明テキストを読み解きながらコインを振って受け損なったら即全滅の強すぎる相手の攻撃をひたすら捌き、細い反撃を通していくそのシステムが強大な敵とのバトルと嚙み合っててめちゃくちゃ面白い。キャラクターのモーションやコインを投げるときのSE、BGMも気持ちがよく、高い難易度の戦闘もやりごたえがあった。
カードゲームとか好きな人におススメです。

ストーリーも面白い。
正直キャラクターものとしてのギアが上がってくるのは4章くらいからなんですが、
序盤の低レアモブキャラみたいな地味な服装のキャラたちが
ちょっと目を離したらみんな死んでいく幼稚園の引率レベルの最悪の雰囲気で進んでいくストーリーも別の意味でちゃんと面白かったです。

ソシャゲってキャラどんどん増えてくのが常だと思うんですけど、リンバスって最初から最後までずっと12人で変わんないんですよ。
この人数もなかなか絶妙だと思う。序盤はなんかよくわかんねえキャラがわちゃわちゃしてて、
ストーリー進めていくとちゃんと全員の個性と役割があるチームになる感じで。
仕事の関係でいやいや集められた仲が悪い最悪な雰囲気のチームがビジネスライクな関係はそのままにストーリー進むごとにお互いを認め合う最高のチームにだんだん変わっていくのマジでいいんですよね。

それでいて各キャラクターの背景も目的も1人1人全然違ってめちゃくちゃよくて…。
チーム内もそうなんですけど各キャラクターの過去でも人間関係のすれ違いがずっと描かれていて、この辺の他人と馴染まない強固な誇りと、不理解の関係性の中にある愛とやさしさを受け取るアニメ筋が2025年鍛えすぎてマジでムキムキになってて本当に最高の面白さだった。多分去年やってもここまで楽しめなかったと思う。
本当に読み応えがありました。
この記事投稿する12/31に新シーズンはじまるのでわくわくしてます。

あとメインストーリーのボイスがめっちゃいい!
フルボイスで韓国語の声優さんなんですがとにかく声がよすぎて、
ゲーム初めた翌日に韓国語の勉強始めましたからね。
そろそろ半年くらい?毎日勉強してる感じで流石にちょいちょい聞き取れるようになってきましたが
まとまった時間できたらもうちょっと真面目に勉強したいですね。

ネガティブハッピィ

脚本家・山中拓也企画・監督・脚本のYoutubeショートアニメです。
顔かわいいけど全員がクズのアイドルコンテンツ(公式キャッチコピー)。

これフォロー内で流行ってたから見たら面白くてハマった。毎週月曜日の楽しみです。
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Youtubeショートアニメという媒体の尺がかなり氏の脚本とマッチしてたと思います。

同じく山中拓也の作品ですと、7月~9月に放送されたTVアニメ『うたごえはミルフィーユ』もよかったです。
特にアカペラというマイナージャンルの音楽を舞台にしておきながらそのジャンル自体を否定するような展開があったりと、とにかくテンプレ展開を否定する外し方が上手いなと感心していたのですが、
この"外し"がネガハピのYoutubeショートになると溜め無しで予想の外からくるセリフの瞬発力と、声優の演技の緩急でやりたい放題の無法地帯になっていて、何度も声上げて笑わせてもらいました。

ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス

10月24日公開。2018年と21年に放送されたTVアニメの続編劇場版となります。
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やっぱ予告PVが徒花ネクロマンシーのイントロで始まるのいいんですよね、我々の2018年…。

これ本当に良かった。正直4年ぶりの続編って今更じゃん?なんか予告もふざけた内容だし…。
って思ってナメて挑んだら作中時間も4年経ってて2025年の話やってて腰抜かした。
アニメは4年ぶりだけど作中ではずっと活躍してて2025年のリアルタイムイベントである万博だったり、伊万里湾大花火だったりを公開時期に盛り込んでくるのご当地コンテンツとしてうれしすぎる。
ゾンサガってリアルタイムコンテンツだったんだ…。
2018年同期リアルタイムコンテンツだったガルラジの今のことを想わずにはいられなかったね(関係ない)。

これ最初見た時ワッハッハ展開雑すぎやけど泣けるぜ~おもろみたいなノリで楽しんで帰って、
そのあとアニメ1期2期外伝漫画全部見直してもっかい映画見に行ったら1回目の何倍も面白くて腰抜かした。
7年間の歩み、アニメ2期で描いた大災害からの復興を果たした2025年があること、当時の子供たちが成長しているであろうこと。アイドルと客の間にある嘘、相互不理解の関係性を描き続けてきたこと。全部一貫され描き続かれてきた要素だった。
やっぱ過去の栄光の復活こそがゾンビランドサガの設定であって、それが2018年に激刺さりした名作アニメが2025年の現代に復活を果たしたことであったり、三石琴乃扮する山田たえが30年ぶりに現代に復活した美少女戦士の設定だったりとかそういうメタ的な面白さもいろいろあり、ゾンビらしいすさまじい不滅の歴史の重みを感じられる作品に仕上がっていたと思います。

この感じのリアルタイムノリで2028年くらいに新作出したら作中の10年後に復活した主人公と同じ感覚味わえますよ、続編待ってます。

チハヤリスタート!

5月15日1巻発売。既刊3巻。短距離走を題材にしたコミックFUZ連載のマンガ作品です。
いや、これモノホンの面白さでしたね。作者の前作もクールで面白かったのが記憶に残っていますが、今作はコミカルなキャラクターで描かれるアツさが半端ない。
「足が速いやつが偉い」と思っている傲慢な主人公を軸に展開される1巻導入の面白さが群を抜いている。
ぜひあらすじとか予備知識確認せず読みはじめてみてほしい作品の1つです。おすすめ。

過去に同じく短距離走を題材にした私の好きなマンガ「ひゃくえむ。」があって、チハヤリスタート!はこの作品の影響をかなり受けてると勝手に思っているんですが、9月に公開されたこっちの劇場版も良かったなあ。2025年は短距離走がアツい!
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描くなるうえは

ヤングアニマル連載のマンガです。既刊6巻
数年前からの話題作なんで知ってる人も多いんじゃないかな。アニメ化も決まりました。
youtu.be
これがさ~、マジで最近の展開がアツくってさァ!

オタクにやさしいギャル作品も疑似恋愛作品も学生作家志望作品も全部好きですし面白いんですけどなんか作品コンセプトが軟弱で他人にすすめたくならないじゃないですか。(個人の感想)
身長差カップルな見た目も某作品っぽいし…。
みたいに思ってたんですがこれが話が進むにつれて主人公とヒロインがもはやプロ作家vsプロ作家のド熱血ライバル関係に昇華してて今激アツなんですよ。

そして正直作中の関係性に置いて行かれていた何のためにいたのかわからない謎のサブヒロインがここにきて完全覚醒して物語の中心に参戦、この漫画家2人の熱血ライバル関係の中に最初から組み込まれていたた圧倒的な強者として君臨、かつ恋愛というテーマでも友情というテーマでもライバルとして参戦して多重の三角ライバル関係が構成されてガチでアツい!おもろ~です。

格闘ゲーム

まとめちゃうか~。
去年スト6やる気出したよ~みたいなこと書いたんですけどちゃんとマスターまで行きました。
マスター行って満足したところでちょっと別の格闘ゲームやろうと思ってギルティやったんですよ。
なんかせっかくだし追加キャラ使おうって思って触ったベッドマン?がガチでツボでした。
youtu.be
このキャラ、マジで私が昔使ってたゲームのキャラ詰め合わせみたいな感じなんですよね。
空中制動ひたすらしながら判定の強いJSをこすりつける感じとか画面端端で速射STG打ち合う感じとか、フォロー効く無責任突進を雑にポチる感じとか…。
とにかく浮遊からの8方向空中ダッシュって空中制動が私の好きだったアルカナハートとか緋想天の記憶が蘇って本当に手に馴染みすぎる!
やっぱ格ゲーって浮いてなんぼなんすよ。ダルシム使ってたのも浮けるからだったかも。
マジでおもろかったな…。

ちょっと今サガット使ってみたいモチベもあるんでスト6やりたいって話もずっとしている…。時間がなくてさ~。(言い訳)

おわりに

まあこのへんで大体10選かな、もはや10選の面影はないですが…。
あんまりTVアニメ見なくなっちゃったけどその分で小説とかゲームを掘れてるとは思ってるのでそこはトレードオフだね…。
小説の数読んだ割に去年に比べたらあんまりツボな作品に出合えなかったのはちょっと物足りなかったかも。

じゃあ来年もいっぱい好きな作品の話聞かせてくれよな、オタク!

真鶴行って『こちら、終末停滞委員会。』の雰囲気を感じるぞ!

小説『こちら、終末停滞委員会。(こちまつ)』主人公の故郷である真鶴へ行ってきました。

念のため書いておきますが、
こちまつはSFアクション小説であって、現実の地球とは全然違う宇宙での物語となっています。
そのため作中に出てくる場所が必ずしも現実の場所と同じではない…というか意図的にズラしたりしてるのかも?という前提で読んでもらえれば。(普通に住んでる人が死んだりしてますしね…)
特定というよりはなんかこの辺それっぽくない!?っていう遊びをするのがメインの旅行記になりますね。
聖地巡礼…って感じよりも質感旅行というやつです。※質感旅行とは、2019~2020年ごろに超狭い範囲で一瞬流行ってた何もわからんがキャラクターの生活圏に行って雰囲気感じるかみたいなノリの謎旅行のことです。
というわけで現地の方や公式に迷惑かけない範囲で遊んでいきましょう。
ちなみに私は全く真鶴に縁もゆかりもない数日調べただけの素人なので、変なこと言ってたらすみません。

というわけで本記事は『こちら、終末停滞委員会。』のネタバレ内容を含みます。

現在作中で出てくるおおまかな真鶴のシーンは、こんな感じです。
『こちら、終末停滞員会。』
→過去回想(コミカライズ版にもあります)
『こちら、終末停滞員会。3』
→mALEEaと恋兎隊との休暇
『こちら、終末停滞委員会。です!シーズン2 ――例えばこんな、普通の日々の物語。』
→レアとの旅行
『こちら、終末停滞員会。5』
→全編真鶴町が舞台

流れ

来週真鶴に旅行行くぞ!
という流れで突然真鶴旅行が決まった直後、5巻の試し読みが出て、旅行2日前に5巻が発売され、
5巻真鶴舞台じゃねーか!となったらしい。(豪運)
ちなみに一緒にきてくれた友人2人はこちまつ未読です。変な旅程についてきてくれて感謝。

真鶴駅についた!

というわけで東海道本線に乗って真鶴駅に到着です。

 神奈川県、真鶴町。海沿いの小さな、坂だらけの港町。悪い思い出が、数えられないほどにある街だ。けれど……多くはないけど……良い思い出も、ある。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。3 (電撃文庫) (p.102). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

5巻で心葉とニャオが横浜に買い物に行っていましたが、これが東海道本線で1時間10分ほど。快速乗れば1時間。
都心から近い!
特急踊り子とか新幹線使えば50分で着きますが、
高校生の日常の買い出しと考えると特急は使わないんじゃないかなあ。でも小柴家は金持ってそうですからね。どっちかな?

3巻ではおそらく東京からきてるので、mALEEaと新幹線で小田原まで30分、東海道本線で15分程度、乗り換え考えたら1時間くらいでしょうか。
新幹線使わなくても1時間40分ですが蒼の学園は金持ってるんで新幹線使うでしょう。

です!でのレアとの旅行では新幹線で金沢からきていましたが、東京で新幹線乗り換えですね。金沢駅から東京まで新幹線で2時間半、合計で3時間半。ハードだ…。
ちなみにカウスのポータルがあるつちのこ坂から金沢駅までは2.4km、歩きで36分ほど(ちょうど中間地点に近江町市場がある)、ぼくは昔そのへんの兼六園まで駅から歩いたことありますが、普通に考えたら車かバス使ったのかな?

 北陸新幹線の駅弁でお昼を済ませた俺達は(金沢野菜の弁当にレアは大層感動していた。優しいお出汁の味が気に入ったらしい)東京駅で乗り換えて(レアが沢山のお土産を購入していた。あと2週間は旅行が続くのに!)、横浜へと向かう。横浜からまた乗り換えて――

こちら、終末停滞委員会。です!シーズン2 ――例えばこんな、普通の日々の物語。 より

…うん?なんで横浜で乗り換えたんだ…?横浜を通る路線は全部東京も通るのでは…。ということはこの2人、おそらく横浜観光をかましている!!!
こういう発見があるのが旅程調査の面白いところ。

いきなり脱線しましたが、真鶴駅前です。

真鶴駅前ロータリー

真鶴駅を降りて、だだっ広いロータリーを見ていると、妙な感じがした。
(あそこ、ドラッグストアになったんだ。前は普通のスーパーだったのに)
3年あれば変わることもあるし、3年ぐらいじゃ変わらないこともある。例えばスーパーは変わってしまったけど、真鶴駅前のピザ屋とカレー屋は記憶の中にある。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。3 (電撃文庫) (p.104). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

真鶴駅前はかなり独特の雰囲気があります。確かに駅舎は古く小さいのですが、内部はピカピカで、清掃も行き届いていました。
駅前のロータリーは道路なんだか駐車場なんだかわからん自由型でタクシーやバスが停車しているのですが、駅前の道路の交通量は信号がないと渡れないほど非常に多いです。
いわゆる人の来ない過疎観光地駅とは違いますが、人や店は少なく、普通の観光地ともまた別の趣がありました。

駅近くのクリエイト

ロータリーから見える範囲のドラッグストアでいうと、クリエイトSDがあります。
この店舗は2023年5月28日にオープンしたようで、実際に数年前にできたばかりのようです。
しかし、ここが以前スーパーだったという情報は見つけることができませんでした。
過去の駅前の写真や動画の映り込みなども探ってみましたが、駐車場?であった様子しか確認できず…。

真鶴ピザ食堂 KENNY

駅前のピザ屋というと、KENNYがあります。
看板はレトロですが、2020年に駅前に移転した店舗であり、私の感覚で言えばそこそこに新しいです。
それでも、幼少期の心葉にとっては既に故郷の原風景となっているの、良いですね。
私が行った金曜日は開いていませんでしたが、心葉は食べたことあるんですかね?ひもののピザ、気になります。

プラシッダ真鶴店

ピザ屋の向かいにあるカレー屋 プラシッダです。
こちらは2022年7月1日開店。ということは14歳で心葉がメキシカンマフィアに拉致されたのは2022年7月~2023年5月の間…とか考えるとちょっと面白いです。
ちなみにカレー屋になる前はひもの屋でした。駅前の一番いい場所で土産を買いやすい場所だったんでしょうが、それがなくなり今カレー屋になっているのは興味深いです。

漁師飯を食べるぞ!

3巻でmALEEaと心葉が訪れた漁師飯の店を探していきます。

駅前ロータリーの近くで言えば、大松という店が漁師飯を出しているようです。

磯料理 大松

どうやらメニューがおまかせしかないらしく、「どんな料理を出しているんだろうと思っていた」は実際に店に入ってもわからない可能性がありますね。
地魚出す店ですと、港で何の魚が取れるか、仕入れられるかは多分ガチャなんですよね。

さて今回は、「海の家風の古びた飯屋」ということで、真鶴町から10分ほど歩き隣町、湯河原の福浦漁港へお邪魔しました。

福浦漁港 みなと食堂

実際には海の家ではなく、漁師小屋なのですが、雰囲気それっぽいかなと。
あと単純にめちゃくちゃ人気店なので本当に人が多い。平日昼間の開店直後を狙ったならいけるかな~と思っていたのですが、当然のように満席で2周目を待つこととりました。結構広い店なんですけどね。

刺身定食+アジフライ
福浦定食
カマス定食

うめえ~。確かにこういう場所の地魚を食う機会ってあんまりないんですよね。魚屋や市場ではあんまり見ないサイズだ…。
小ぶりながらもどの魚も旨味が凝縮されており、なかなか食べたことがない美味しさ。
mALEEaは刺身が美味しいいうてキャッキャしてましたけど本当にレベチで美味しいです。これが日本の刺身の標準だと思うなよ…。
真鶴周辺の魚がおいしいとされてるのには理由がありまして、真鶴半島の先の「お林」という原生林が木陰の提供、水質の浄化、餌の供給をしてくれる「魚つき保安林」であるからとされているんですね。
お林、ありがとう…。このお林にはあとで行きます。

ちなみに海の家風の店、というと真鶴港にAMAYAという店もあり、こちらも気になるところ。
BBQメインのお店です。

住宅街を探検するぞ!

真鶴駅から、海とは逆方向に坂を上っていく。見慣れた道を、見慣れた景色を

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。3 (電撃文庫) (p.108). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

さて、3巻の足跡を追います。今回の時系列的には駅から出てすぐに行ったんですけどね。
しかし、ここでいきなりわからない。「海とは逆方向」ってどっちだ!?

海に囲まれる町、真鶴

北西以外の全方位が海だろ…。
おそらくは真鶴港の方を海として駅の北西側に行けばそれっぽい感じでしょう。北側は全部上り坂ですしね。北東側はそこまで坂が急じゃなかったですし。
どうせ特定できないですし雰囲気ウォークです。

真鶴中学校

線路の上を渡り、駅の反対側に行くと真鶴中学校があります。
真鶴町には現在小学校も中学校も1つしかありませんので、全ての子供たちがここに通うことになり、心葉もここ通ってたんじゃないかな、と考えると面白いです。

 角を曲がると──生家があった。俺が生まれた家だ。かつて長い間、住んだ家だ。見慣れた道の先の見慣れた実家は、見慣れない程の茂った雑草に包まれていた。

>>
逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。3 (電撃文庫) (p.110). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版. <<

ぶらぶら廃屋でもないかな、と歩いてみましたが、空き家っぽい場所も含めてどこもきれいなもんでしたね。

真鶴町は神奈川で最も高齢化率が高い、神奈川県唯一の「過疎地域」だったりするんですが、これはかなり意外でした。それなりによく聞く程度に知名度が高く、観光資源もある町という印象があるし、住宅も隙間なく密集して建てられています。
実際に訪れてみても、どこを歩いても清掃や整備が行き届いている。確かに歩いていて人とすれ違わないし、店も開いていないことが多かったのですが、それも単に外出していないだけ、たまたま店閉じているだけかな、という印象です。

これについては、今回の旅にあたって町が出してる資料とか読んだんですが、町をあげて空き家とかをきれいにして新しく若い人や店を呼びこんでいるみたいです。
5巻の小柴と心葉の両親なんかも、海外仕事が多いからさほど交通の便意識する必要が少ないわけで、ちょうど住みやすい街として移住してきたのかもしれませんね。

真鶴の町、現在高齢化が進んでいるのはあるのですが、昔からずっと歴史的にメインである漁業や石業、観光業どれも需要が生まれた時期と需要がなくなった時期があって、おそらく都度失業者が出たり人がいなくなったりしてる土地ではあるんでしょうね。
子供たちの感覚的にも中学校から徒歩1分で真鶴駅で電車に乗って都心にいける、みたいな閉塞感とは真逆の環境なのかもしれません。
ちなみに高校は真鶴にはありませんので、子供たちは町を出ることになりますね。作中の真鶴高校は…非実在

岩方面を探索するぞ!

さて、駅に戻って心葉が幼少期を過ごしたジジイの寺だったら面白いな…と思っている瀧門寺に向かいます。駅から徒歩15分程度ですが、今回はタクシー使いました。
本当はバスが良かったんですが、本数少ないのでね。
「バスで山道を上る」という描写からおそらく半島側にある小柴家(三ツ石に歩いていけるので)から、チャリ通の心葉があえてバスを使う距離…となるとかなり遠いはず。
そして子供を預かっていた…という条件であたりをつけてた場所です。貴船神社なんかも保育園あって山にあってでそれっぽさはあるんであとで回ります。
ちなみにコミカライズ版のジジイの寺とは別に似てないです。

 風穴が開くような寂寥感に襲われた。そうだ。この山道の落ち葉を集めて、皆で焼き芋をした。あそこの広場では、チビたちと一緒によく遊んだ。ドッジボールが流行ってたっけ。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (p.176). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

瀧門寺へ向かう道
瀧門寺
鐘楼
保育園舎

ここちょっとすごくないですか?
Wikipediaによると1573年からある、かやぶき屋根が圧倒的な由緒正しい寺なんですが、そんな景観もおかまいなしに子供たちを遊ばせるための遊具が沢山おかれてるんですよね。
本当に子どものことを第一に考えていたお寺なんでしょうね。
今は子供の預りはないですし、寺の前にあった小学校も廃校になっているので、昔ほど子供たちが訪れることはないんでしょうけどね…としんみりしています。

さて、瀧門寺を離れて坂を下り、岩海岸へ向かいます。徒歩5分ほど。

岩海岸

ここ、5巻BookWalker特典でシャチイーターがBBQをした場所、そして5巻のフェスの場所であり、心葉とリンが現実世界に帰った場所なんじゃないかと思ってるんですよね。
BBQのくだりで心葉が「砂浜に座る」という描写があるんですが真鶴の海岸はほぼ岩場であり、砂浜はここだけなんですよ。
まあ岩場にも砂くらいあるわって言われたらそうかもなんですが…。そう考えるとバーベキュー場があるケープ真鶴で食べながら階段250段以上降りて三ツ石海岸に座ってる説もあってちょっと面白いです。
ちなみに岩海岸でのバーベキューは禁止です。

そしてフェスの場所ですね。真鶴でイベントが行われて、大量に集客できる場所となると、
『真鶴よさこい大漁フェス』が開催される真鶴港とかも候補なんですが、今回は海岸ってことなので岩海岸かな、と。先に言ったように他の海岸って岩場なんで多分人集められないんですよね…。
ちなみに過去に半島の先の方の駐車場で3日間ライブやったら騒音で鳥がいなくなって1年間戻ってこなくてクソ怒られたみたいなエピソード見かけてちょっとウケました(笑いごとではない)。

 朝になって、俺は合同演奏回の会場でもある、真鶴の海岸を訪れていた。フェスの会場のように組み立てられたライブの舞台が、ピカピカと初冬の日差しを反射している。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (p.309). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

岩海岸で開催されたイベントですと、『源頼朝旗挙祭2025』とかがあって、画像は見つけられなかったんですが、ステージとかもあったみたいですね。
何より古くから開催されてきた『岩海岸夏祭り』で精霊流し(灯籠流し)がお盆に行われる場所なんですよ。
つまりはあの世の魂をこの世界から迷わないように海に向けて送り出す、というイベントです。
心葉とリンが元の世界に帰るための祭りがある場所、としてはかなりハマってないですか?
映像探してみましたが、大量の灯篭が海に流れながらバカでかい花火がドカドカ上がっていてだいぶおもろいです。

そしてこの岩海岸は源頼朝船出の浜、としても知られています。
石橋山の戦いで平家との闘いに敗れて絶体絶命の源頼朝が山中を逃げ回った末に潜伏し、何度も見つかりそうになりながらもコソコソ船を出すことに成功した場所で、その後安房国に逃れて各地の武士を集結させて平家を打倒して鎌倉幕府を開くって大活躍するわけですね。
線の人へのリベンジを誓い、この場所を離れて大いなる戦いに挑む心葉たちが旅立つ場所としてマッチしてませんか?
この時の船出エピソードが面白くて、追手に船が見つかるんですが、地元の漁師が「鮫を退治するための鮫追船だ」って嘘をついてうまいこと逃げおおせるんですよね。
つまり源頼朝と6人の仲間たちのチーム、サメイーターなんですよ。(は?)

 放たれた魂魄流動体が、海岸から数百m程の海上を貫いた。そこには目に見えないなにかがあって、レーザーを妨げているようだった。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (p.321). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

ちなみに海岸から数百メートルっていうとちょうど真鶴ブルーラインにぶつかるあたりでしょうか。この世界にはこの道路ないのかもしれませんね。
真鶴を通過して先に進む道路です。この道を経て、次の戦いへ進むのです。
この道路ができて観光客が素通りするようになっちゃったみたいなエピソードもあるんですけどね。

真鶴港を経て三ツ石へ行くぞ!

さて、岩海岸から真鶴港へ向かいます。
この途中でこの町唯一の小学校、まなづる小学校がありますね。

まなづる小学校

先にも言った通りにこの町には現在小学校が1つしかないので、ここに通ってたのかなあと考えるのも面白いです。
作中の小学校は1巻の卒業式、3巻のmALEEaとみっちょんの行方を追う際とかに登場です。
1巻で心葉とみっちょんは小学校の体育館から近所の病院に向かい、次のシーンで大学病院についていましたが、おそらく近場の病院→この地区の緊急搬送病院である隣町の湯河原病院、そして次のシーンの大学病院は伊勢原東海大学医学部付属病院?と移動したのでしょうか。あるいは都心の大学病院にいったのかもしれませんね。子供たちが付いていくにはここもなかなかハードそう。

まなづる小学校の現在の生徒数は1学年23~40名。
町内の子供は全員顔見知りだし生徒のことは全員覚えてる感じになりますよね。

「いや、やっぱりね。そんな子、記録に載ってないよ」
数年前の生徒のリストを見ながら、教師は眉を顰めます。
「そんな特徴のある子を、私が覚えていないとも思えないし……」

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。3 (電撃文庫) (pp.113-114). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

そのまま坂を下りて真鶴港へ。
ここ、5巻表紙っぽいところですね。
こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫)

真鶴港

大型クレーンはここにしかないので真鶴港のどっか…というイメージをしています。
ニャオが座っているの係船柱かと思ってたんですが帰ってよく見たらコンクリぽいですね…となると山下浜側からかしら…?

港でイカ爆弾買って食べつつ貴船神社へ。
先にも言いましたがジジイの寺モチーフ候補パート2です。

貴船神社

いや、寺と神社ちゃうやんとなるでしょうが一応ね。

保育園もあります

何かっていうとここが祀ってる神は3柱。「大國主大神」「少名彦大神」「事代主大神」なんですよ。
だから何?っていうと、要するに事代主大神って恵比須、エビス様と同一される神なんですよね。
そもそも仏教の寺で日本の神であるエビスは普通祀られないんでジジイの実家がちゃんとした寺じゃないんじゃないか…?

「うちが拝み屋をやっていられたのは、うちが憑き物筋の家系だったからさ。代々、うちの子孫には神が憑く。彼方の昔に存在した、神様の心の残滓がね」
「……へえー。ジジイにも、なんかが憑いているんだ」
「ああ。俺に憑いているのは、エビスさまじゃぜ」
「エビスって、あの、七福神の? 太って、釣竿と鯛を持っている?」
「そうさな。でも少し違う。俺のエビスさまは、真っ黒で、そして、信じられないぐらいにデカい。ぶよぶよとして、一言も喋る事がない。そいつが、常に俺の事を見ている」
逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (pp.179-180). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

で、エビスと同一視される信仰があって、それがくじら信仰、古くは勇魚信仰ですね。黒くてデカくてぶよぶよしてる、どう見てもくじらです。
真鶴はちょいちょい相模湾のくじらが打ち上げられる土地なのでここでその信仰が古くからあり、他の信仰と結合したとか考えると結構面白いです。
勇魚、勇魚義人に連なる名前なんですけど彼方の昔から残る黒の神といえばit was a humanの…まあこの話長くなるからやめよっか。

ちなみに野村胡堂(のむ…)という小説家がいて、彼の音楽評論家としての名前が「(野村)あらえびす(麁蝦夷)」であり日本書紀に出てくる蝦夷のリーダー、「東夷」は「あずまえびす」と読んで東国の武士を指すわけで、胡道(字は違うけど)、東夷、勇魚 全部エビスなんですよね。
みなさんは知ってましたか?ぼくは今初めて知りました。

さて、神社からさらに山登ってお林に入り、三ツ岩に向かう中で作中とは関係ないんですけどもう1つ面白い場所があります。
山神社、山の神ですね。お林の神であり、海の神でもある。今回ここは見ずに通過しちゃったんですけど、ここで祀られてる神様、名前忘れられてるんですよね。
みんな名前は忘れちゃったんだけど忘れられたままみんなが信仰してる。

 俺にとって今最も重要なことは、『誰か』の名前を取り戻す事だ。


逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (p.151). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

こういう神様がこの真鶴の土地に古くから根付いてるの、めちゃくちゃエモいんだよね。

 俺達の秘密基地があるのは、真鶴の三つ岩に向かう道の途中だ。その廃墟同然の建物は、草次郎の爺さんの所有する場所らしいのだけれど、土地の価値は二束三文だし建物はまともに使いようがないので、いつの間にか、たまり場になっていた。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (pp.9-10). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

さて、秘密基地の場所です。作中では三つ岩となっていますが、三ツ石が元ネタでしょう…というか作中で普通に三ツ石海岸って書かれてますね…。

三ツ石へ向かう道リスト

いや…実際どこなんですかね?個人的には地元の人が「ケープ真鶴へ向かう道」とか「お林に向かう道」と言わないってことはケープ真鶴~三ツ石の間だと思ったんですけど…。
他に建物らしい建物は一切ないですし…と思ってたんですが、林の中にバブル期に建てられてそのまま放置された廃墟(現在は入れない)みたいなのがちょいちょいあるみたいで、そのへんの可能性もありますね。

ちなみに三ツ石に向かうには歩道のない車道を行くか林の中を進むかの択です。最短ルートは林…というか車道がめちゃくちゃ遠回りなので、基本的に徒歩で行くなら林を突っ切る感じになりますね。

お林の中の道

ただし、普通に結構な斜面あって危ないのでこの道を夜通るのはやめておいた方がよいでしょう。

というわけで全然廃墟っぽくないお店ですが、ケープ真鶴から三ツ石海岸へ降りる階段の途中には、岬の喫茶店があります。私的には秘密基地ポイントかなり高いんですけど、周りに建物がない、海に近い林の中ってことでのむ姉の実家もこんな感じかもですね。

岬の喫茶店

閉店直前にもかかわらず入れてもらいました。ドリンクのみいただきましたが、次に来たときはゆっくりケーキ食べて心葉くん残念パーティごっこしたいですね…。
全然余談なのですが、このお店、特撮『列車戦隊トッキュウジャー』の主人公の家のロケ地だそうで、私はみたことないのですが真鶴の5人の幼馴染チームが記憶を失う話らしく、謎の接続でちょっと面白かったです。

というわけで店を出て三ツ石海岸へ。ニャオと心葉が星を見に来た場所です。

三ツ石海岸

ここには夜また来ます!

宿へ

というわけで日も落ちたあたりで宿へ到着。
普通に限界徒歩旅行すぎるので激しい高低差の道や階段を15キロくらいノンストップで歩く気でなければ普通に車かタクシーかバスを使うのをおすすめします…。
多分町中にはタクシーいないので駅から召喚することになりますが…。

特に聖地要素はないんですが『展望の宿 峰』さんに泊まりました。
5巻出る前に宿取ったんですが、結果的にかなりいい場所でしたね。
星を見に徒歩で三ツ石にいくなら絶対に半島の先に近いところの宿取った方がよいので。(視界が悪くスピード出せないため、半島の先側のこの宿ですら片道30分以上はかかるので…)
逆に言うとこのへんに小柴家はあると思ってるんですよね。正直駅側とか港側の家から歩いてきたら片道1時間以上かかる上に高低差かなりあるんで正気じゃないと思う…。

風呂が各部屋貸し切りスタイルだったのでうお~!です!の家族風呂混浴再現きた!と思って風呂に飛び込んだのですが、
友人が「1人用風呂かと思ってた」とかいう謎の主張で誰もこず、1人で風呂に入ることになった。(男3人旅です)

ちなみに作中でも語られてますが、真鶴には温泉ないんですよ。
隣町の湯河原にいかないといけない。
だから3巻で恋兎隊が泊まったホテルはたぶん湯河原なんですよね。
あそこはガチの温泉街なんで、多分大人数が急に泊まるってなっても対応できそうです。
あるいは日本を知らないひかりがデカい風呂は全部温泉だと思ってるみたいな説はありますね。
人口温泉だったという可能性もありますが。(『展望の宿 峰』は人口温泉でした)

あと銭湯も真鶴にはないですね。5巻の大黒湯はいずこ…。

 その夜のご飯は本当に美味しくて、ほっぺたが落ちてしまうかと思いました。

「これ美味しい……! 何のお魚?」
「多分、キンメダイかな?」
こちら、終末停滞委員会。です!シーズン2 ――例えばこんな、普通の日々の物語。


キンメ、美味かったです。

あと食後に出たみかんがすっぱくて美味しかったです。
mALEEaがみかん畑の香りのする町って言ってましたが、
畑というか庭がある家大体みかんの木があるし町のそこらじゅうでみかんが売られている!

星を見に行くぞ!

さて、風呂入ってご飯食べて友人とボドゲで遊んでたら体力完全復活したので星を見に行くことに。1人で…。

 夜の真鶴には、海の音と、虫の声しかない。車の音も遥か遠く、俺達は鬱蒼と木の生い茂る道路を歩いて、三ツ石海岸へと向かっていた。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (p.222). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

何も見えねえ

三ツ石海岸への夜道、なかなか怖いです。本当に街灯も店も歩道もないので。車もほとんど来ませんが、走り屋みたいな車がちょいちょいきてそこそこ怖いです。
スマホのライトでいけるやろくらいに思ってましたが、足元しか照らすことできないんで、やっぱちゃんと指向性のある懐中電灯あった方がよいですね。
歩いてたら普通に木にぶつかりそうになった…。
静かかと思ったら鳥やら猫?やらが林のなか全方位からガサガサカァカァ騒いでて全然うるさくてワロタ。
鳥たちを私が起こしてしまった形かもですが…。謎の巨大生物(たぶん猫)が目の前横切ったりでだいぶビビりました。

「あ、やった。車ないですよ。ふふっ、ふたりじめ」  三ツ石海岸では、偶にバーベキューをする人が居る。真鶴も一応は、湘南と呼ばれる地域の端くれなのだ(諸説あり)。

逢縁奇演. こちら、終末停滞委員会。5 (電撃文庫) (pp.222-223). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

バーベキュー場

いるんだろうか、初冬の夜にバーベキューする人…と思いましたが、普通に公式サイトで予約できるので需要あるっぽいです。22時まで可らしい。
5巻が初冬なんで今の方が寒いと思いますがニャオリスペクトで腹にカイロ貼ってたら歩き続けてたのもあって普通に暑かったです。

三ツ石と星空

で、星は本当に良かったです。
ガチで視界広くてすごい。写真は補正でだいぶ明るい(スマホで撮りました)ですが実際は真っ暗なので。
山を背負って前方は海、という形で、山側は誰も住んでない原生林なので当然明かりなし。街側の光をシャットアウトといった形で、山の上からみる星空とはまた違う良さがある。
海側は横浜とか千葉側の光がそこそこ明るいですけどね 。
いや~これ本当に良かったなあ。ふふっ最高の景色をひとりじめって寝転んで空眺めてたら、知らんうちに近くにカップルがきてたので勝手に脳内で心葉とニャオに変換しておきました。最高。

あ、先輩っ。今、星流れた!

流れ星っぽい写真も撮れました。まあ飛行機が映り込んだだけなんですけどね。

というわけで満足したので歩いて帰って寝て今回の真鶴旅行は終了です。

おわりに

いや~めちゃくちゃ楽しかった。
見どころはたくさんあったんですが、こちまつ読んでなかったら絶対に夜に星を見に行くとかあり得ない択だったので、本当に感謝です。
ちゃんとしたカメラと三脚もってけばよかったな~と思いました。

真鶴町は神奈川で2番目に小さい町で、1日で全部歩いて回れる広さですし、都心からも近くて気軽に遊びにいける場所だったので興味がある人は行ってみるのかなりおすすめです。
あと、ぼくは観光は平日のが絶対いいと思ってた派なんですが、ここは平日は店が閉まるのもバスなくなるのも早いし土日で来る方が無難かもしれませんね…。

終わりだよ~ん。

劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』ネタバレあり感想読解 アイドルに何ができるのか

注:本記事は劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』のネタバレを含みます


劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』、おもろかったね~。
ちょっと内容の話もしたくなったのでネタバレありで書きます。
結構長いので暇なときにでも~(8000字以上ある)。

ネタバレなしの感想…感想か?まあ懐古ポエムみたいなのも書いたのでそっちはそっちで。
maisankawaii.hatenablog.com

2025年のフランシュシュ

劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』は佐賀県立宇宙科学館 ゆめぎんがのシーンからはじまる。
ここでは科学館の見学に来た地元の幼い子供たちに向けたフランシュシュのアイドルとしての仕事が描かれ、
そして、ライブの後にこれまでのゾンビランドサガ、これからのゾンビランドサガが語られる、という導入となっている。

正直これを見ているときの感想は「我々は何を見せられているんだ?」というものだった。
その理由は、このシーンで描かれるのは徹底した「幼い子供向け」の興行であるからだ。
そして視聴者もこれを「子供向けのコンテンツを見る大人」という形で見ることとなる。

このライブシーン、『冒険ズンドコドン』のライブ映像はYoutubeで劇場版の宣伝として先行公開されているので見てほしい。
youtu.be
この映像は徹底した下からのアングル、子供の目線で描かれているのがわかるだろう。
大人から見た若いアイドルではない、子供から見た、大きなお姉さん。という図だ。
子供の目線ではステージの下の背の低い草も、大きなジャングルのように見える。
想像力を育む知育の曲として考えられているな、と思った。

私はあまり熱心なゾンビランドサガのオタクというわけではない。
4年ぶりに復習もせずに映画に挑んだため、話もあまり覚えていなかった。
楽しんでみてはいたが、正直ノレない話もあり、しかし好きな話もあったと思う。
今回も子供からの視点に寄せていて、自分が楽しめる話ではないのかもしれないが、まあゾンビランドサガはそういう話だった気もするな。
とりあえず心を児童にチューニングさせていくか、という調整を考えていたところで流れるのが、
TVシリーズでお馴染み、「これまでのゾンビランドサガ」そして現在につながる「これからのゾンビランドサガ」だ。
youtu.be
一気に2018年と2021年の記憶が戻る。完全に思い出した。
自分、ゾンビランドサガ、いけます。行かせてください。

つまりは、この子供たちの目線で描かれるシーンはアニメ2期『ゾンビランドサガ リベンジ』へのアンサーなのだ。
この作品の4年前、アニメ2期『ゾンビランドサガ リベンジ』の11話で描かれたのは大雨という震災、そしてその被災地の中で子供たちを相手に佐賀県民の心を支えたフランシュシュだ。
そしてこの作品は2025年、この世界の中で被災地であった佐賀は復興を果たしている。
つまりはこの復興を果たした中でも変わらず子供たちの前に立つフランシュシュは、4年間彼らの心の支えとしてあったということなのだろう。
フランシュシュの活動開始から7年、おそらくこの劇場版で描かれた幼い子供たちは物心づいたころからテレビCMや地元のイベントでフランシュシュに触れてきたはずだ。
子供からしたら「謎の新人アイドル」ではない、大きな存在・見上げるべき・立派な「隣人としてのご当地アイドル」であり、そして少子高齢化という問題を抱えた佐賀の中でその子供たちの笑顔を守ってくれた、現在も守り続けている存在は大人の目線からすると偉大な「佐賀を救ったアイドル」そのものであるはずだ、ということがこの子供の目線からは描かれている。

「佐賀は必ず蘇る」「フランシュシュにはそれができる」、巽幸太郎が12話で知事に伝えたそれが、アニメ2期が未来に託したその光景が、2025年の今ここで我々の前にあるのだ。
その蘇った佐賀、復興の象徴こそが、この2025年、フランシュシュのステージで笑う子供たちであり、フランシュシュが救った佐賀なのだ。

フランシュシュのアイドル性とは何なのか

さて、冒頭部分だけでこんなに書いていたら一生終わらない。
劇場版をみて個人的に難解だな、と思っているテーマの話に絞って突っ込んで書いていこう。

それは、予告にもあった佐賀の危機に対しての山田たえの問い。「アイドルに何ができるっていうの」だ。
アイドルがエイリアンの侵略に対して何ができるのか、そしてアイドルが佐賀の危機に対して何ができるのか。
そして劇場版の中でなぜアイドルがエイリアンと戦わなくてはいけないのか。

フランシュシュは「佐賀を救うアイドル」だ、いや、先に説明したように2期を経た今「佐賀を救ったアイドル」といってもよいのだろう。

「佐賀を救う」、この目的は巽幸太郎によって何度も作中で擦られてきたフランシュシュのアイドルとしての在り方だ。
だが、ゾンビランドサガの面白いところは、彼女たち自身はステージに立つ・ステージを成功させる・客の想いに応える・客を喜ばせるという目的で動いており、佐賀を救うという目的で直接的には動いていないところだろう。
それなのにアイドルをしているだけで人々を集め、喜ばせ、そして結果的に佐賀を救っているのが痛快なのだ。

なぜそうなるのかというと、「佐賀を救う」という目的が何なのか、巽幸太郎はフランシュシュに対して説明していないからだ。
何なら視聴者に対してもろくに説明がされていない。2期10話の巽幸太郎と徐福の会話「佐賀の消滅を防ぐため」や外伝漫画を読めばある程度わかる内容ではあるのだが、
テレビシリーズおよび劇場版を見る上では「説明をされていない側」、つまりはフランシュシュの視点でこの「佐賀を救う」というふんわりとした言葉に向き合うようにこの作品はできている。
巽幸太郎にとってのアイドルは、佐賀を救うという目的のための手段であるが、フランシュシュにとってのアイドルとは、在り方そのものであり、「佐賀を救う」ことは未だ一方的に与えられたキャッチコピーでしかない。

この隔絶は明確に認識した上でこの劇場版は視聴する必要がある。
なぜなら生前の山田たえは「佐賀を救う」という目的を自覚的に持つ人物であり、おそらく巽幸太郎と同じ位置づけにあるキャラクターであるからだ。
山田たえの伝説性、在り方とは、おそらくは「佐賀を守る存在」であったことだ。
山田たえの細かい設定は外伝漫画の内容となるので割愛するが、つまりは生前の山田たえは「アイドルではない」のだ。
本来アイドル(花魁や子役も概念的にはアイドルの範疇であろう)ではない存在でいえば二階堂サキもそうなのだが、
今回重要なのは山田たえがフランシュシュ側ではなく数千年続く佐賀の呪いと戦ってきた徐福・そして巽幸太郎の側の陣営の人間という部分だ。
つまりは彼女にとって佐賀を救うことが目的で、その手段がアイドルである必要はないしアイドルである理由も理解できない、劇場版でその説明義務を負ったフランシュシュはアイドルとして佐賀を救った存在ではあるが、巽幸太郎からその理由を与えられていないし佐賀を救ったことに自覚的でもない。

そして山田たえも「佐賀を救う」とは何なのか、つまり生前山田たえが戦ってきた佐賀の呪いについては一切フランシュシュに対して説明をしない。
ここも巽幸太郎と同じだ。徹底している。なぜなら山田たえにとってフランシュシュは守られるべき佐賀の民でしかないからだろう。
なんなら山田たえにとってのアイドル・そして紺野純子とは憧れの存在でありながら、最も守りたかった平和・日常の象徴であったのかもしれない。

だからこその、山田たえの「フランシュシュを抜けます」宣言だ。なぜなら彼女にとっての「佐賀を救う」存在はアイドルではなく、戦士であるからだ。
かつて山田たえが命を賭して救った佐賀は平穏を取り戻していた。
30年の月日が流れ、かつて共に戦った仲間たちも傍に居ない今、佐賀の危機に対して戦うことができるのは山田たえただ一人である、という想いもあったのかもしれない。
こうしたすれ違いの中、ゾンビィバレの件もあり、フランシュシュから離れて山田たえと避難民たちは逃げることとなる。

そしてこの別れの直後、避難民たちがエイリアンに襲われる危機の中、紺野純子は、フランシュシュは旗をもって声を上げ、囮として立ち上がるわけだ。
さて、繰り返しになるが「佐賀を救う」は巽幸太郎が掲げるフランシュシュのキャッチコピーでしかなく、フランシュシュのメンバーにとっては実感のない、空虚なものだ。
しかしそのキャッチコピーはフランシュシュ結成から7年間、命も目的も失った彼女たちをステージに向かわせるべく傍で常に繰り返され、掲げられてきたフランシュシュというアイドルの御旗なのだ。
巽幸太郎がいない今、彼女たちが変わりにその旗をもって立ち上がるのだ。

その姿は山田たえには別の意味で突き刺さる。
死後30年、佐賀と戦ってきた徐福が山田たえに与え、巽幸太郎が後輩として継ぎ、そしてフランシュシュに託された「佐賀を救う」という在り方が、そこにあるのだ。
かつてのあこがれ、なりたかった自分、日本人の御旗、伝説・紺野純子と共に。そうだ、アイドルは強いのだ。
佐賀の危機、エイリアンに堂々と立ち向かうフランシュシュと逃げ隠れ守られる民の中にいる自分、
自分が立っているべき場所はどちらであるべきだったか、という話である。
だからこそ、山田たえは戦士として、仲間の元へ、フランシュシュの元に戻らなくてはいけないのである。
そして破壊されるゆめぎんがを見てもう1つ思い出す、フランシュシュは戦士ではない、ただの無力なアイドルである。
アイドルには何もできない。
かつて山田たえは佐賀を守り、死んだのだ。
当然自分と同じ彼女たちも同じように、彼女たちもここで散るのだ、と。

と、思うじゃーん?なのがゾンビランドサガだ。
ゾンビは死なないのだ。すべてが破壊された炎の中から堂々と現れるフランシュシュ。
不滅・復活・死の克服、ゾンビランドサガのテーマである。
これは雷を受け流した水野愛、爆発から生還した二階堂サキのように人々を守り死んだ山田たえの死へのリベンジでもあるかもしれない。
このシーンで山田たえは雑に轢かれて普通なら死んでいるが当然のようにギャグ演出で復活している。
人間としての彼女はここで死に、ゾンビとして、フランシュシュの仲間として生まれ変わり改めてここに立つのだ。

そしてフランシュシュのその姿は山田たえだけではなく佐賀の人々の想いをも動かすことになる。
これこそがフランシュシュのアイドル性だ。
戦士・山田たえの自認である「なぜ何もできないアイドルが佐賀を守るのか。戦うのは、佐賀を守るのは自分だろう」という想いは、
当然佐賀の人々の中にもある自認なのだ。ここの重ね方が劇場版のキモです!
「何もできない無力なアイドルはエイリアンと戦わない」「何もできない無力な自分たちも戦えず逃げ隠れるしかない」「アイドルが逃げずに戦っている」「アイドルが戦っているのに自分たちは何故戦わないのか」これだろ!?
我々視聴者は彼女たちがゾンビなのでエイリアンに狙われないという前提を知っているが、佐賀の多くの人たちはそうではない。
命を顧みずに佐賀を奔走し避難所に現れるその姿は、これまで「めちゃくちゃやってきたフランシュシュ」の新たなヤバすぎる伝説として人々の心を打つのだ。
そしてフランシュシュは7年佐賀の人々と共に歩んできたご当地アイドル、つまりは佐賀の人々にとっての取り戻すべき日常・平和・笑顔の象徴だ。その存在が彼らを奮い立たせるのだ。
1期OPで謎の敵のエイリアンと戦っていた『徒花ネクロマンシー』がここで流れるの、最高すぎる。

この「絶対困難を乗り越えた場所に現れる」は1期の大寒波・2期の大災害のステージに現れた客たちの構図とも重なりますね。
あの時にステージに来てくれた客たちへの恩を返すのだ、フランシュシュ。

劇場版への問い、「なぜエイリアンとアイドルが戦うのか?アイドルはエイリアンと戦わないだろう」への答えは、
そのままの意味、「アイドルはエイリアンと本来戦うべきではない」という前提をもとにして成立し、人々の心を動かすという偶像・アイドル性なのだ。

さて、ここで一度陣営を整理して最終作戦、オペレーション・フランシュシュの準備の構図を見てみよう。
ここで示されるのは「アイドル・フランシュシュの計画に協力する佐賀県民」という構図の話ではない。
「戦士・山田たえの計画に協力する佐賀県民とフランシュシュ」という構図である。
ここで動く佐賀の民は基本的に大人であり、子供は戦わない・守られる存在として描かれる。
その中でフランシュシュは戦う側なの、皆に戦力として認められている感じで良いよね…。(まあ作中で7年活動しているので実際大人として見られているのだろうが…)

劇場版の序盤では母船を攻撃するための協力を得られることができなかった山田たえだったが、
ここで佐賀県民の協力を取りつけることに成功する。そこをつなぐポジションを担ったのがフランシュシュという彼女の仲間たちである。
1人ではなく複数人で、そう。昭和のアイドルから平成、現代のアイドルへのテーマでも語られたそれだ。
時代は変わったのだ。仲間たちと支えあう、テレビの中だけでない、同じ時を歩んできた、客たちと同じ目線で戦うそれに。
1人ではなくフランシュシュの皆と、そして佐賀の皆と山田たえは戦うのだ。

そしてこの作戦の後半で、フランシュシュにはもう1つの目的が描かれる。
それが「山田たえを連れて帰る」というものだ。
つまりは最後まで、「エイリアンと戦い、佐賀を救う」という行為は山田たえの目的であってフランシュシュの目的ではないのだ。
フランシュシュはただ、仲間と共にあろうとし、連れて帰ろうとしただけなのだから。
腐れ縁なんです、ゾンビなだけに。ゾンビィの仲間はゾンビィだけである。

まあそんな感じで追い詰められて『REVENGE』流して全員倒してドーンって感じで生還。山田たえの物語は終わる。

アイドルが戦えないなんて誰が言った?本当は彼女たちは強いのだ。普段は人間のふりをしてアイドルをしているけどね。もうめちゃくちゃ。

このアイドルをしていたら結果的に佐賀を救っていた、みたいな話はさらに先があって今回は佐賀を救ってたらそのまま地球を救っているんですよね。規模がデカすぎる!

さようなら、山田たえ

さて、劇場版は長々と説明してきたように戦士・山田たえがともに戦う仲間と出会い・佐賀の危機と戦い・勝ち・そして死を克服する物語だったわけだが、
その仲間、フランシュシュの本業はアイドルである。当然ともにステージに立つのだ。
この執着は戦士・山田たえではない。アイドル・フランシュシュ0号としての7年間の想いだ。
歌えるようになったなら、踊れるようになったなら、やりたかった夢が、立ちたかったステージが彼女にもあるのだ。

このOvertureの映像、本当に良かった。
youtu.be
あらゆるライブで流れるOvertureカウントダウンはここまでの歩み、障害を越えてステージに立つという困難・重みを感じさせるものだが、
7年間の波乱を経て、そしてエイリアンを倒し世界を救って立つステージ、このフランシュシュ以上の歩みを持つアイドルはそうそうないだろう。
そしてカウントダウンのトリを飾るのがこの地球を救った山田たえことフランシュシュ0号、英雄の凱旋だ。


そして消えていく山田たえの記憶である。
ゾンビィは死なないがアイドル、伝説の山田たえはここで死ぬのだろう。
「私をよろしくお願いします」の言葉が本当に重かった。複雑な思いを抱え歌うメンバーの表情も。
0号のまだステージへ立っていたいというその執着、そして元に戻った後のマイク噛み、好きなものを噛む、好きだったステージを、アイドルを。
例え死んだとしてもアイドルへの想いは不滅であり、この先も続いていくのだろう。蘇ったゾンビィとして。
そしてステージで輝いていた彼女の映像は、人々の記憶は残り、永遠に語り継がれていくのだろう。伝説(サガ)として。

おわりに

という感じでエンドロール、見事な生き様だった。
面白かったねー!
さーすがに楽しすぎるしめっちゃ泣ける映画だった。
2回見たんだけど2周目の方が泣けた映画、なかなかないと思う。

元気になって久々に記事書いちゃった。
よくわかんないけどめっちゃ泣けるみたいな作品だと思うけど、よくわかんなかった部分深堀りしてみるのも楽しいですよ。
みんなも感想とか考察いっぱい書いてくれよな!読みたいので。

という感じでおわりだよ~。
ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス フランシュシュ The Best Paradise

劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』見てきた日記ポエム(ネタバレ無し)

ゾンビランドサガが好きだった。

ゾンサガの映画が始まることを認識したのは映画館の予告でだったと思う。
いや、おそらく劇場版作成の報は何度も目に入っていたのだろうが、存在をすっかり忘れていた。
youtu.be
予告を見たときの第一感は、「悪ノリ回っぽいな…」というものだった。
アイドルのステージを台無しにする佐賀の危機。宇宙船とド派手なバトルアクション。
俺たちが見てきた佐賀のご当地アイドルは?まあドラえもんとかも劇場版では宇宙人と戦ったりするか、そういうお祭り回なんかな~。
ってか劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』とかいう名前がまず何?
ゆめぎんがパラダイスって何?子供向け映画か?
正直好きだったけど結構「俺は今何を見せられてるんだ…?」って全然ノレない回もあるのがゾンサガだったからな…。

とああだこうだしてるうちに映画館にゾンサガの広告とかも増えてきて、そろそろ始まるのか…という認識はしつつも楽しみ、というよりは不安の方が大きかったかもしれない。
いうてなんだかんだで面白いんだろうな~、でも不安だな~とか思いつつまあ別に公開日に見なくてもいいか…くらいの印象で初週の安い日に見に行った。ケチなので。

映画館で席につき、見飽きた予告が流れる中、スマホでフォロワーの反応はどうかな、と思って検索してみた。
どうやら3人ほどこの映画見ており、わりと好感触のようだった。

ゾンビランドサガが好きだった。
2018年の10月12日、ゾンビランドサガ2話『I♡HIPHOP SAGA』が衝撃的すぎて眠れず放送終了後そのまま10回くらい見たのを思い出す。
1期も2期も11話で全部もってく剛腕スタイルだったな、好きだった。

かつてゾンビランドサガは盛り上がっていたと思う。1期もすごかったが、2021年、2期の時期はTLがほぼ実況勢で埋め尽くされていたのもあってTL全員が見ていたアニメなんじゃないかという印象だった。
なんなら普段アニメ見ないような人たちにもあーだこーだと語られていた作品だった。全員絶賛というわけでもなく、結構賛否両論な盛り上がりでもあったと思う。
楽しかったな、2021年。あの頃のTwitterはXに変わってしまって、毎週盛り上がってたのに2025年で劇場公開だとこんなもんか。
劇場アニメ映画なんていつもこのくらいではあるんだけれど、いつも見てる他の劇場作品と同じような客入りだった。
こんなもんだったかな、ゾンビランドサガ。もうちょっと幅広い層を熱狂させた作品だと思ってたけど。

まあ今書いたのは後付けの感傷で、実際は周りの客の様子なんか気にせず2021年のあの頃の続きを見に行きますかくらいのフラットな感じだったわけで。

映画が始まった。
そこにいたのは2021年の彼女たち、フランシュシュではなかった。2025年のフランシュシュだった。
劇中ではきちんと2期から4年が経過していた。衝撃的だった。
そうだ。ゾンビは年を取らないのだ。
我々がこの4年間で腐っている間に、彼女たちは佐賀とかいう異世界で輝き続けていたのだ。
嬉しかった。
二次元アイドルは歳を取らない、それは当たり前のことなのだけれど、いつまでも同じ年齢で時を止め足踏みを重ねるアイドルたちとは違っていて、同じ時を生きて、現実の世界についてきてくれるフランシュシュが。

彼女たちは変わらずそこにいた。
そうなのだ、昭和の輝きを、平成の輝きを現代に蘇らせたのがこの作品だった。
2018年のあの輝きが、2021年のあの輝きが、変わらず2025年のアニメとして蘇ったことで、ようやくそれを実感できた気がした。

映画は文句なしに面白かった…といいたいところだが正直言いたいこともたくさんある、そこも今までのゾンビランドサガと変わらなかった。
でもめちゃくちゃ笑って何度も泣いて、本当に楽しい映画で、嬉しい映画で、好きな映画だ。

劇場版『ゾンビランドサガ ゆめぎんがパラダイス』、かつてゾンビランドサガが楽しかったなという想いがある人は、ぜひ見に行ってみてほしい。
薄れてしまったその気持ちも、きっとゾンビィのようによみがえらせてくれると思うから。

答えはいつだって、佐賀にある。

ゾンビランドサガが、好きだ。
ゾンビランドサガ
ゾンビランドサガ リベンジ