オタク!ジークアクス4話面白かったからシイコ・スガイの話するぞ!
インターネットでは家族より殺し合いを選んだ戦闘狂のカスだの死に場所を求める戦争の亡霊だの幻覚を見てる強化人間だのいろんなこと言われてて面白いキャラクターですよね。
こんなにいろいろ解釈が別れるのはシイコの内面をマチュ(視聴者)視点で読み取ることができなかった、という作劇上の都合からきているんじゃないかと思うのですが、じゃあマチュが読めなかった行間を読むのがオタクの仕事でしょうよ、というわけでシイコ解釈バトルやりましょうや、君の考える最強のシイコ・スガイを作ろう!(ガンプラ)
シイコ・スガイは何故戦うことを決めたのか?
さて、いきなり本題からいきましょう。シイコは何のために戦うのか。
作中ではマブを殺されたことに対する仇討ち…という説明がありましたが、
これはシイコの言葉ではなくジャンク屋の面々の言葉・予想にすぎません。
シイコは「赤いガンダムは私が倒す」とは語ってもその理由は言葉にしていません。
なんなら作中でもきちんとマブであるボカタに「こだわりすぎだよ、そいつはあんたの仇じゃないんだ」と指摘され「そんなことどうだっていい、このパイロットのプレッシャーは普通じゃない!」と返していますし、少なくともシイコの中で仇討ちは理由としてはかなり優先度が低いものと考えた方がよいでしょう。
さて、ジャンク屋の面々や視聴者がシイコの戦う理由をそう解釈してしまったのか。
ここにはシイコの持つ情報と彼らの持つ情報に差異があることが原因でしょう。
その情報とは「白いガンダムと赤いガンダムはジオン軍が動かしているわけではない」そして「シャリア・ブル率いる強襲揚陸艦ソドンはガンダムを追っているだけ」という2点です。
彼らはこの情報を認識しているからこそシイコが金目当ての遊びであるクランバトルに参加しあえて戦う理由は特にない、つまり仇討ちだとか戦闘狂だとかの個人的な理由で動いていると解釈するわけですね。
しかし客観的に考えてほしいのですが、「ジオンの最新鋭ガンダムが突然現れ軍警を制圧すると同時にソドンが中立であるはずのイズマ・コロニーに突入して軍警本部の目の前に停留、クランバトルでコロニー内の戦力を圧倒しその武力を示している」状況は普通に考えたらガンダムを使ってのジオンの示威行動でありすぐにでもサイド6で戦争が始まってもおかしくないという超緊迫した状況にしか見えないと思うんですよ。
実際ガンダムを追ってきた(回収しにきた)だけなんで~とか説明されたとして誰がそんな理由信じるんだって話でもある。そうだとしてなんで無理やり突入してきてんだよという話になるので…。シャリアがおもしれー男なのが悪いよ。
この温度感の差はちゃんと4話の作中でも描かれており、ソドンが去らないことを不審がり開戦を予想する軍警の会話とジオン軍を追い出そうとする民衆デモでも描かれています。
イズマ・コロニーは比較的平和な場所とはいえ、戦火に追われて移住してきた人々はもちろん戦中を生きてきた誰にとっても人口を半分に減らしたジオン軍の容赦のない先制攻撃と虐殺は記憶に新しく、相応の緊張感はあるのだと思います。むしろ作中で描かれている現代人のようなキャラクターたちの視点の方がこの世界では少数派ではあるのでしょうね。
ここでの軍警の会話ではジオン軍が次の戦争を起こすだろうという予想が語られており、その中心は「赤いガンダム」です。つまりこのイズマ、そしてシイコの家族が暮らすパルダが当然戦場になってもおかしくないとみるべきなんですよ。
さて、ここまで丁寧に説明されてるわけでシイコが語らずとも「赤いガンダム」を排除すべき理由、明確に予想できますよね?
家族を守るためにはこの戦争の中心、英雄である「赤いガンダム」を消す…ないし倒してその権威を失墜させてプロパガンダの道具としての価値を下げる必要があるわけだ。
その目的のためには簡単に接敵できて邪魔が入らないクランバトルってめちゃくちゃチャンスなわけですよ。
この辺の話はシイコが自発的に考え動いたわけでなくとも、連邦軍の残党が集まって技術開発してる民間警備会社のPMCからシイコに依頼がきてその話を受けた、みたいな流れがあってもそう不自然な話ではないように思えます。
現状ジオンのガンダムに対抗・自衛できる勢力がないことがクランバトルを通じて全世界に配信されているいうのは中立国の立場としてはかなりまずいわけですからね。別に連邦vsジオンという構図でなくても戦力を示す必要は絶対にある。
兵器が動かせて、相手を倒せるのはおそらく自分しかいない、ならば戦うしかない。ガンダムシリーズ伝統の主人公の文脈ですね。
「あいつおかしいぞ殺し合いしてんのか?」「ただのゲームなのに死ぬまでやらなくたって」と思えるのはジオンがポメラニアンズと関係ないことがわかっているからこそ言えるセリフで、それを知らない人の目線では殺し合いどころか最初から戦場、最前線でもおかしくない。ここで赤いガンダムを殺すことが戦争を止める最後のチャンスだくらいに考えていたとしてもそうおかしな話ではないのではないでしょうか。
…とまあここまでが客観的な情勢の描写から予想できる話、初級編ですね。理屈としてはそう外してはないんじゃないでしょうか。
本題終わったんでここまで読んだら帰ってもらっても大丈夫です。
とはいえシイコ・スガイがおもしれー女なのはどう考えても内面ですよ、彼女の意味不明な哲学に踏み込んでいきましょう。
マチュとシイコのすれ違い
「このアニメはマチュの視点で描かれているので作劇上シイコの内面が読み取れないようになっている」、最初にこの話を書きましたが、ここにもう少し踏み込んでいきましょう。
主人公をマチュと見たときに、4話で描かれるテーマは「進路調査」です。ここでいう「進路」とは何かというと「特別と普通」どちらを選ぶかという『選択』。そして『特別』とは何か。それは「普通の道を選ばないこと」という『反発』。そしてマチュにとって「普通の道を選ばなかった」シュウジとシイコへの憧れは、「理解できない他人」、『不理解』として描かれます。思春期ですね。
シイコはマチュ目線でマチュの母親「普通の母親」と対比される「異常な母親」でなくてはならない。故にその理解を助ける内面描写はされないわけです。
改札でのマチュの問い「お子さんがいるのに(クランバトルという非合法で危険なケンカに参加して犯罪者になってしまうのは)なんで?」ですが、シイコ視点では「お子さんがいるのに(戦わないことを選べるのに家族から離れて自分の命を懸けて戦場に立つ理由は)なんで?」という問いなわけですね。
これに対するシイコの解が「何かを手に入れるために何かを諦めなきゃいけないなんて――そんなの理不尽じゃない?望むもの全てを手にすることができたら、どんなに幸せか」なわけですが、これをマチュは「家族との普通の暮らしと同様に非日常の世界で生きることも選択する(進路選択)」と解釈している。
しかし、シイコの意図としては真逆の意味、このセリフは反語であると解釈できるのではないかと私は考えます。「平和を手に入れるためには平穏に暮らすことを諦めて戦うことを選択するしかない(進路選択)、私にとって世界は常に理不尽であり、望むもの全てを手にすることはできなかった、世界はそんなに幸福には出来ていない」進路の話です。マチュがシイコに見出した自由への憧れとは程遠い、兵士として、母としての義務感による「普通」の選択。マチュには理解できない母親という生物。マチュと母親のすれ違いもめちゃくちゃ面白いんですけど今回はシイコの話なので置いておきます。
このセリフが反語であるという説は、後のシイコの回想からも補強できます。「この世界は結局理不尽で、望むもの全てを手に入れる選ばれた人なんていない」ですね。
改札での会話のシーンで「シイコの後ろに映る化粧品や旅行などのポスターは普通の生活をするならば本来諦めなくてはいけないものを諦めていないことを示している」という考察を読んで、なるほど面白いなと思ったのですが、その目線でいうとこれって「視聴者に向けたシイコ像」の演出ではなく「マチュの目に映るシイコ像」の誤解の演出意図なんですよね。なぜならこのシーンが「私が手に入れたい未来、在り方」というテーマで描かれたシーンとしてマチュの目線に映るのはシイコとその後ろのポスターなのですが、シイコの目線の先を見るとそこにはマチュという自分の子より少し大きな「戦争を知らない子供がコロニーで成長している姿」そしてマチュの背後に広がる難民地区には「戦争を乗り越え幸せに3人で暮らす家族の姿」、つまりこれが「私が手に入れたい未来、在り方」だということなんですね。対比描写面白すぎる…。
少し話を戻してここでシイコが何をもって「理不尽」「全てを手に入れる」という言葉を選択したのか。彼女の過去を振り返る必要があるでしょう。シイコとニュータイプの話をしていきましょう。
シイコの執着、ニュータイプの否定とは
ここまでのシイコの読解は「シイコは理解できる人間である」を主題にしてきましたが、視聴者がシイコを「理解し難い人間である」として彼女の思考に歩み寄ることを諦めてしまうのは作中で描写されるニュータイプへの異常な執着と殺意を受け入れることが難しいからでしょう。
シイコは100機以上を撃墜した最強クラスのエースであるにもかかわらず、敗戦国、連邦のパイロットです。
つまり、シイコは「戦いでは勝利したのに戦争に負けた、つまり何も手に入れることができなかった」ある意味理不尽の中に生きてきた人間です。ジークアクス世界でどういった戦争が起きたかはわかりませんがそもそも連邦軍の一兵士の立場って基本「理不尽な戦いに巻き込まれている側」ですからね。
人間は理不尽の中で生きるのは難しい。つまりはこの理不尽に対してなんらかの理由を言い訳として考える必要があったわけです。
「ニュータイプという選ばれた人たちならそれができるのかしら?」
がその解答ではないでしょうか。彼女がクラバ前に語ったニュータイプの解釈は、ジオンのプロパガンダ。
つまりは普通の人間が祭り上げられているだけという話なんですよね。
おそらくシイコもシイコのマブも相応の実力があったのでしょうが、軽キャノンのような量産機で戦わされていたのでしょう。
それに対してニュータイプと喧伝される赤いガンダムはサイコミュを搭載した専用機で戦果を上げ続け、重要な作戦の中心に常にあり、戦争を勝利に導いたわけです。
つまりは普通の人間はどれだけ強くてもどれだけ勝っても求めるものを手に入れることができない。普通に生きるしかない、勝つことを他者に約束づけられた特別な人間が結果的にニュータイプと呼ばれていたという理論です。選べない進路、「普通」と「特別」の話ですね。
この「普通」と「特別」しかない二元論の分類、めちゃくちゃ面白いんですよ。だって「魔女」って二つ名、普通に考えたら異端の象徴、つまり「特別」の側じゃないですか。それでも彼女はどれだけ他人から「特別」と思われようが自分が「特別」と認められない。
この解釈でみると、シイコが自分がニュータイプであると認められない理由がみえてくるのではないでしょうか。
つまりは、シイコがニュータイプであったなら、赤い彗星のように選ばれた特別な人間であったなら、理不尽に何かを失ったことに、戦争に負けたことに理由がつかないのです。私はこんなにも強いのに、ニュータイプではない普通の人間だったから。めちゃくちゃ傲慢!ここにもまた思春期の文脈がある。
この辺の「ニュータイプである/ない」の理解は能力がある/ないというよりもシイコの中での概念上のメタファーとしての文脈の意味合いが正直強いのかなと思います。
最終決戦!シイコが最後に得たものとは!
さて前置きはこのへんにして、シュウジとの闘いを見ていきましょう。
ニュータイプらしい謎の調査能力をもってジャンク屋でアンキーとマチュに接触したシイコは、マチュとの会話の中でマチュが白いガンダムのパイロットであることを見抜いています。
つまりポメラニアンズが純粋なジオン軍配下のチームではないことにはある程度気が付いているわけです。
しかし彼女はそれでも赤いガンダムとは戦う理由がある。それは現在ジオンと関係がなくとも戦争の火種になるであろう赤いガンダムを無力化するためであり、そしてもう一つ、かつては軽キャノンでしか戦えなかったが、最新の専用機を与えられたという互角の条件でならば、あの戦争に勝てたのではないか。何も失うことはなかったのではないか、「自分は選ばれなかっただけだ」という過去に自分に言い聞かせた言い訳の証明。彼女にとって赤いガンダムはジオン軍のメタファーであり、このクランバトルは一年戦争のメタファーでありやり直しとなります。
クランバトルの中で白いガンダムとマチュとの格付けは早々に終了し、シュウジと2人の世界に入ります。このシーンはマチュから見た場合二人に置いて行かれた構図なのですが、シイコの物語とみた場合でもマチュが平和に生きる子供のメタファーであり、子供を戦いから遠ざけ決着をつけにいく構図がここに見出せるの、めちゃくちゃ美しいと思いませんか?
マチュ視点ではシイコとシュウジは「普通」ではない「特別」の側として映っています。しかしシイコはゼクノヴァで消えたことでああやはり赤い彗星も自分と同じ「普通」の人間だった、と考えています。
しかしそう判断したはずの赤いガンダムが消えていなかったという状況。そしてシュウジから感じるプレッシャーは「普通じゃない」。彼女にとってのあるはずのない幻想、自分とは違う存在。ニュータイプの再来です。
シイコは戦いの中でニュータイプなんていないという前言を撤回し早々にガンダムのパイロットをニュータイプと断定します。「お前が選ばれた奴じゃないと証明してやる!そうすれば、私は…」シイコにとっての「ニュータイプではない」認定の基準は「死亡すること」です。ここでいうニュータイプはジオンがプロパガンダとして使う「方便のニュータイプ」ではなくシイコの概念上に存在する「全てを手に入れることのできる人間」としての意味合いのニュータイプであり、「全てを手に入れることのできる人間はいない」という証明です。
しかしこの主張は謎のテレパシーという超能力と「僕はまだ死なない」という主張によって否定されてしまいます。
シュウジは間違いなく真の意味でのニュータイプであり、シイコはシュウジに殺されてしまいます。
「死亡すること」は「ニュータイプでないこと」、つまりはシイコはまた「選ばれなかった」、「普通の人間だった」「全てを手に入れることができなかった」という話です。
ここでシュウジを見失ってしまうのがニュータイプの自認の否定からきているんですよね。自分がニュータイプであることを信じられたなら目で見ずとも相手の位置を把握できたかもしれないのに。(事実シュウジは目に頼らない回避を見せているように感じます)
しかし、ここで一転攻勢謎の霊体会話で大逆転が発生します。
「僕の願いはひとつだけ、それ以外は何もいらないんだ」です。シイコの哲学、「ニュータイプは全てを手に入れる人間」だという前提がここで崩壊するわけです。「全てを手に入れる人間なんていない」ことの証明がシイコの望みとするなら、これによって証明は完了してしまいます。
シュウジの願いが何かは明かされませんでした(地球に行くこと?)が、それを感じ取ったシイコは息子を幻視したので家族関係の願いだったのかもしれません。つまり、シイコも「家族との平穏以外は別に何もいらなかった」ことにここで気が付いたのではないでしょうか。彼女は結婚と子育てを「普通の生活」と認識していましたが家族という存在は彼女にとってとっくに「普通」ではなく「特別」になっていたわけです。
そして「特別」を手に入れていたということは、それはまたある意味で彼女も特別であり「望むもの全てを手に入れていた」、つまりは「シイコ・スガイは家族を手に入れたその瞬間からずっと彼女の解釈におけるニュータイプであった」という証明なのですね。ついでに赤いガンダムが地球にいってくれるならシイコがこの戦いで守ろうとしたサイド6は多分安泰でしょう。めでたしめでたし。
これにて彼女の過去の鬱屈した因縁は清算されて完全勝利です!いや全然完全勝利ではないか…。
おわりに
ジークアクスのテーマには結構な割合で「他者への不理解」があると思っています。
でもそれって別に普通の話だと思うんですよ。誰だって他人のことなんてわからない。自分が想像していた他人像なんて大概間違ってるもんですよ。だからこそこのシイコ・スガイとかいうおもしれー女が何を考えて行動したのか、自分なりの納得を考えるしかないわけです。みなさんは納得できましたか?
このキャラ意味不明すぎ!で終わらせるのも一つの視聴スタイルではありますけど、意味不明なことの理由を想像するのって楽しいですよ。私はこの視聴スタイルで頭がおかしくなりました。やめたほうがいいかもしれません。
まあそれはおいといて考察は自分なりの納得を得るための遊びであって展開当てゲームでも設定当てゲームでもないと私は考えていますし、面白い解釈思いついたらみんなでワイワイ盛り上げていってほしいですね。