なんもわからん

さっき作った

『はいふり』が3年越しで唐突に"理解った"話

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わからん
はいふり』、ことハイスクール・フリートは2016年4月から6月にかけて放送されたTVアニメです。

2020年1月18日には新作劇場版の公開も予定されていることもあり、オタクたちが主にはいふりカメラで盛り上がっています。
私もそんなオタクたちの盛り上がりを見ているうちに劇場版前にOVA見ておこうかな、という気持ちになってOVA見たんですけど、OVA見てたら結局TV本編も見返したくなっちゃいました。

で、本編なんですけど、わりとはいふりって放送当時から賛否両論な作品だったと思っていて、たしかに私も作中のエピソード同士の繋がり、というか意図がいまいちつかめずよくわかんないまま、特に赤道祭→最終話周辺の繋がりがわからんまま見てたところがありました。

でも動画はいいしキャラクターはかわいいし船がブンドドする様は見てて楽しくて、結構好きなんだよな~みたいな気楽なノリで見はじめたんですよね。

そしたら唐突にわかってなかったエピソードのつながり・意図が"理解"出来てしまったという話をしようと思います。
(理解出来てしまったように感じたのはオタクの幻覚なので個人の感想です)



赤道祭がわからんくてピンチ!

はいふりで私が最もよくわからんかったのが第10話『赤道祭でハッピー!』です。
シリアスな戦闘回の合間、武蔵の救出という重大な任務を控えた状態でギャグに寄せてすべり芸にめちゃくちゃ尺を取った日常回。
はいふりはこの話に限らず全編通してシリアスなシーンの合間に本筋(最終回に繋がるキャラの成長や関係性の変化)に絡まないとしか思えないキャラクターたちの日常を描くエピソードがちょくちょく描かれていて、その意図がつかめなかったのが私のわからんポイントの大多数なんですけど、『この作品は日常系だからそういうもんだって赤道祭でようやく理解した』『赤道祭こそがはいふりの本質』『赤道祭だけでいい』っていう赤道祭ガチオタクもいるしまあ私もオタクが言うならそういうもんかなんかなくらいの温度感で見てました。

んで今回10話見てたらですね、全部わかったんですよ。
というわけでちょっと聴いてください。

10話前半のあらすじを簡単に説明すると、機関長の柳原麻侖が赤道祭に乗り気だが他メンバーは全然やる気なくて、機関長もやる気をなくす中、応急長の和住媛萌が個人的に神輿を自作していてそこからメンバー全員赤道祭に向けて盛り上がるって感じです。
で、ここのひめちゃんのセリフなんですけど
「私、両親が神田の生まれで、祭りって聞くと血が騒いじゃうんだ」
ここで完全にわかったんですよね。わからない?そう…。

つまりどういうことかというと、『祭りで血が騒ぐ』という共通の価値観がマロンちゃんとひめちゃんにあって、それが他のメンバーにも伝播する。そしてひめちゃんのそれは家族という関係性から伝播したものである。
つまりこの作品における『家族』という単語には単純な『共同生活の中で生まれた疑似家族』という意味だけでなく、『各キャラクターには家族がいて、そこに独自の文化がある』という概念があるんですよね。

で、ここで腐るほど出てきた岬明乃のセリフです。「海の仲間は家族なので」。
はいふりの主人公である艦長・岬明乃は両親を亡くしているため、他の船員たちが本来の家族に変わる疑似家族である、と受け取ってしまいがちなんですけど、他キャラクターは当然基本的には存命の家族がいるんですよね。
なので各キャラクターは『自分の家族』というコミュニティと『晴風クラスという家族』という2つのコミュニティに属しているわけです。もっと言うと各キャラクターは『幼馴染』『科の同級生』などの小規模なコミュニティにも同時に属しています。

この『コミュニティ内での価値観・情報共有』と『複数のコミュニティに属する』2つの視点を持つことで赤道祭で描きたかったものが見えてきます。
それはつまり晴風クラス内に存在する小規模コミュニティの集合を赤道祭という媒体を通じて晴風クラスというコミュニティでつなぐことです。
晴風のクルーたちは基本的に仲が良いように見えて、特にキャラの名前と顔と所属科を認識してないうちは全員めちゃくちゃ仲良しにしか見えないんですけど、例えば作中でも艦橋メンバーと機関室メンバーで情報の共有がなかったりとか各チーム間での隔絶が明確に描かれているんですよね。水着回とかの遊んでるシーンでも基本的には科ごとで集まって遊んでますし、伝声管なんかもその象徴です。
その溝を埋め、壁を超えるストーリーを描くために存在するのが挿入される日常パートであり、そして赤道祭なんです。

では赤道祭を読み解いていきます。
まずコスプレをしてる主計長・等松美海と機関員・伊勢桜良が艦長に鍵を渡すシーンから航海長・知床鈴と電信員・八木鶫による祈祷。
ここ、まず全員が違う科なんですよね(祈祷で横にいる宇田慧は八木鶫と同じ科ですけど)。前半のコスプレはポセイドン、ギリシャの海神なんですがその後は巫女で諏訪信仰で、全く違う文化コミュニティを見いだすことができます。鈴と鶫の実家が神社という実家コミュニティの話も出てきます。
機関科の神輿。
これは一応同じ機関科ですが、作中で機関室組と応急長・応急員の2人はそんなに絡んでないのでそこのつながりを見せる意図ですかね。見張員・マチ子との交流も見えます。
出店。
ここでは普段の給養員3人に加えて機関科の若狭麗緒と伊勢桜良が料理作ってますね。杵崎姉妹の実家横須賀の話も出てきます。砲雷科の射的は…いつものメンバーだな…。
鼓笛とダンスは砲雷科と航海科が2:2ですね。
といった感じでここまで遊びのシーンで科ごと、チームごとで別れがちだったのが赤道祭では意図的にシャッフルされていることとに気がつけると面白いと思います。実家の話にも注目です。

赤道祭の出し物の演目を見ていきましょう。この出し物はだいたい科でわかれてるんですけど各シーンで描かれるものに注目して下さい。
1つ目、砲雷科によるモノマネです。
最初は砲雷科のやってるモノマネが全然理解できず白けてる皆ですが、理解できる砲術長と水雷長を皮切りに航海科の勝田聡子や主計科の等松美海といった別の科の人物も反応を返し盛り上がります。ここに科の壁、価値観を超えたコミュニティ間の交流が見られます。
2つ目、航海科の後悔ラップです。
ここで明かされるのは各キャラクターのプライベートであり、給養員の杵崎ほまれが持つ幼馴染との・陸とのコミュニティです。ここで各キャラクターが持つ晴風の外のコミュニティが全クルーにつながる構図が描かれます。
3つ目、砲術長水雷長による漫才です。
ここでは砲術長が水雷長と共に堂々と舞台に立つ様が砲雷科のメンバーに評されるという、2つのコミュニティの構図が見えます。
4つ目、艦橋メンバーの劇です。
これは完全に記録員・納沙幸子の趣味ですね。彼女の趣味を艦橋メンバーというコミュニティで共有するという構図に意味があります。
5つ目、相撲。
これはまあ作中で語られてるので特に解説の必要はないでしょう。明乃にクロちゃんが手を差し伸べる構図とクロちゃん個人のエピソードですね。外野で勝利を確信している松永理都子が万里小路の所属する砲雷科で、それを否定しているのが黒木と同じ機関科の駿河留奈という情報格差に注目して下さい。
最後、歌。
ここで他メンバーと違い晴風内の小規模コミュニティに属していない鏑木美波の基本設定を他メンバーが知らなかったことが明かされます。これで各コミュニティ間がつながり、情報共有が完了したわけです。そして演目である歌、「自分の子供に聴かせてた」「我は海の子」というセリフからこの歌を全員で歌うことで全員を同じ子供、家族というコミュニティで改めてくくる意図があったわけですね。

赤道祭全演目…完全に"理解"したわ!

海の仲間は家族なのでピンチ!

さて赤道祭はこんな感じですが、「最終決戦前にクルーが家族として一致団結した」の一言で済ませてもいい部分をなんでこんなに解説したかというとまだ続きがあるからです。

はいふり本編の、特に日常パートで描かれるのはクッソ雑に言うと、各キャラクターの属するコミュニティの仲の良さと、他コミュニティ(の文化・価値観・過去)を受け入れる部分の2つだと思っています。
ここを単純に『晴風の船員同士が団結した』とか個人間の関係性だけで捉えていると足りなくて、最終話で明乃ともえかの関係性についていけなくなるし日常回の意図がわからず浮いているように見えるし赤道祭と他の日常ギャグパートの区別がつかなくなるんですね。

具体的に最終決戦(11話~12話)に向けて意識するべきコミュニティ同士のラインを挙げてみます。
晴風クルー↔(赤道祭)↔晴風クルー↔各クルーの属するコミュニティ
晴風クルー↔ミーナ↔シュペー
晴風クルー↔明乃↔ましろブルマー
晴風クルー↔明乃↔もえか↔武蔵

明乃と各キャラ周りは他にも沢山ありますが、基本的にはこのコミュニティ同士をつなぐために各エピソードがあると見ると意図がわからないシーンがほぼなくなるかと思います。特にミーナとの縁をつなぐ意図のシーンは多いですね。このラインを『家族』で見ると結構わかりやすいんじゃないかな。

明乃の「海の仲間は家族だから」はミーナを助けに行くシーン、比叡・トラックの人間を助けるシーンとかでも使われてて晴風クルーだけを指してるわけじゃないのは明確で…というかトラックの住人を対象にも言った以上陸の人間にも適用されるし家族というコミュニティでくくって全人類を助けるくらいの認識って思ってるんですけど、(地球が海に水没してるって設定もあるので全員海の仲間か?)赤道祭で晴風クルーっていう『本当の家族』が生まれてしまうのがまたわかりづらいんだよな…。

岬明乃が例のセリフを言うシチュエーションは「海の仲間は(誰かの)家族だから(助ける)」で読むのが解釈しやすいと思っていて、基本的に失わないために助ける対象なんですよね。で、これって明乃が家族を持たないから、家族を海で失ったからこそのセリフであって春風クルーを本当の意味で家族と認識したことでクルーを危険に晒すことができなくなってバグったっていう読み方すると結構筋が通る…のが11話。

11話はお互い足りないものを補い合う…で明乃とましろが別の価値観を持つ人間のまま和解、晴風クルー全員が明乃の意思・決断を支える流れで明乃の『他人を自分の身を顧みず助ける』理念に晴風クルー全員が従う流れです。
で、他人は他人なんですけどここにまた『明乃ともえか』というコミュニティ・家族の文脈が存在する。海の仲間である家族を助ける、というセリフに再定義がされるんですよ。これに今まで気がつけなかった。ここが完璧すぎる。

この守る相手が今回たまたま明乃の身内だったわけなんですけど、晴風のクルーって東京湾まわりが多いとはいえ日本中いろんな場所から集まっているじゃないですか。そんな彼女たちは当然多種多様なコミュニティに属していて、日本中に守るべき人間がいるわけです。彼女たちが生まれ育った場所、実家、幼馴染の話をするのはそれが彼女たちが守るべき対象だからなんです。伊予弁だって単なるキャラ付けの記号じゃないんですよ。『海に生き、海を守り、海を往く』あまりにも美しい。晴風が日本中、世界中のコミュニティをつないで海の仲間・家族として守るわけです。はいふり、わかってきた気がする…。"縁"の物語だ…。

晴風が沈んでピンチ!

晴風、ラストで沈むじゃないですか。
限界を超えてやりきった船が沈むのに敬礼するのは今まで史実パロだよな~とかロマンだよね~くらいの気持ちで見てたんですけど、また違うメッセージもあるのかなって思ったのでちょっと書きます。

沈む直前、陸に上がるシーン、クルーが大げさに感激するじゃないですか。
やっぱり海の上、船の中って特異なシチュエーションで。やっぱり人は陸の上に生きる生物なんですよ。
だから海の、晴風の上で生まれた縁、コミュニティって幻想みたいな脆いものなんじゃないかなみたいな、船を降りたら無くなっちゃうじゃないかなみたいな寂しさがやっぱりあって。

でも晴風って船がなくなっても晴風クルーの絆は消えないんですよ。
なぜなら人と人をつなぐのは人であって船じゃないんですよね~、そんな感じの解釈でどうでっしゃろか。

終わりでハッピー!

書いてたらめっちゃ劇場版楽しみになってきたな!!!!!!!!!!!!!!!!
はやくみたいですね!!!!!