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さっき作った

プロセカ『仮面の私にさよならを』感想・読解みたいなやつ

『仮面の私にさよならを』感想読解書くぞ!

ここまでの流れ

メインストーリーからずっと課題となっていたわけですが、いよいよまふゆとまふゆ母との直接対決で話が大きく動きましたね…。

ここ最近のキーストーリーはほぼまふゆが中心になってストーリーを回していました。
メインストーリーで封印した看護師になりたいという夢を抑えこみ感情を殺してきたまふゆは、『この祭りに夕闇色も』で自分のやりたいことを再認識し、『願いは、いつか朝をこえて』で外の家庭を見て反論してもいいことを知り、『イミシブル・ディスコード』で母親に意見をしようとして上手く行かず、『ボク達の生存逃走』で追い詰められても逃げていいということを教えられました。

今回のイベント『仮面の私にさよならを』はこの流れを汲んでいよいよ『イミシブル・ディスコード』のリベンジで改めて母親と対峙するがうまくいかず決別してしまうといった形のストーリーでした。というわけでまだ続くみたいですね…。

以前書いた『イミシブル・ディスコード』の記事では、奏(とプロセカをプレイしているプレイヤー)から見るまふゆと、まふゆ母から見るまふゆの乖離、そしてそれによるすれ違いを読解しました。
maisankawaii.hatenablog.com
この読解の要点だけまとめると
①まふゆは自分が音楽をしたいという気持ちを正しくまふゆ母に伝えていないし、悩んでいる様子もまふゆ母に見せていない
②奏は①を知らずに「音楽をしたいと伝えたが母親に否定された」という言葉を額面通りに受け取り、先入観を持ってまふゆ母に対峙した
③まふゆ母は②でまふゆの気持ちを代弁する奏の話を聞いたが、それはまふゆ母が知るまふゆの「音楽より勉強を優先したい」という言葉や気持ち、医者になりたいという夢と異なっていたため、奏はまふゆの想いを理解していない・無視して自分の気持ちを押し付けているものとして解釈した
④奏は③の様子を見て、奏の知るまふゆの状態や気持ちと異なっていたため、まふゆ母はまふゆの想いを理解していない・無視して自分の気持ちを押し付けているものとして解釈した
⑤2人は③④を経て、相手はまふゆの心を理解していない、相互理解が不可能として決別した

この読解自体は大きく外してはいないでしょう。
この内容を踏まえたうえで、今回のイベントを見ていきましょう。

まふゆ母はなぜまふゆを信じられなかったのか

というわけで今回のイベントで注目したい場所はここ、「まふゆ母はなぜまふゆの言葉を信じられなかったのか」でしょう。
この親子の対話自体はずっとやってみるべきこととして過去のイベストで描かれており、ニゴカイトも絵名もまふゆにまふゆ母に正面から対話するようにアドバイスしています。これは「ちゃんと自分の意思表示をするべき」だけでなく、「話せばわかってもらえる(かもしれない)」という意図が当然あるでしょう。これは『イミシブル・ディスコード』の記事でも書いたように「まふゆが母親と正面から向き合ってこなかったから」という前提があるからです。

まふゆ母がまふゆを信じられなかった理由を「子供の気持ちを無視して自分の気持ちを押し付ける理解のない親だから」と解釈してしまうのは簡単ですし、実際まふゆ母はストーリー上の悪役・敵役としてそういった描かれ方をしています。今回のイベントストーリーでいうことを聞かないまふゆにヒステリーを起こす姿は擁護のしようがなく、ステレオタイプ毒親の姿といった印象でした。
ですが、個人的には『イミシブル・ディスコード』の読解のように、まふゆ母の視点・情報でストーリーを見ていくと、なぜまふゆ母がこのような行動をしたかにはもう少し複雑な理由があった上でシナリオが作られているのではと感じました。

これは以前も書きましたが、まふゆ母の言動がまふゆを苦しめているという結果がある以上、どういう意図があったとしても「正しい親」の姿にはなりえないでしょう。ですが彼女が何を考えて行動したかという部分はこのまふゆとまふゆ母を取り巻くストーリーの面白いところだと思いますので、改めて向き合ってみるのも読み方の1つかと思います。

前置きが長くなりましたが、結論から言うと、まふゆ母がまふゆの言葉を信じることができなかったのは、まふゆが自分自身の気持ちで話していないという認識を持ってまふゆの言葉を聞いていたからでしょう。これにはまふゆがついた嘘が関係しています。

まふゆがついた「嘘」について振り返ってみましょう。
まふゆ母がまふゆの嘘・違和感に気が付いたのは、シンセが捨てられていなかったとき、深夜に活動しているのを誤魔化したとき、そして今回のイベントでの成績が下がったことのごまかし、予備校のサボりなどです。
そしてこれは良いにしろ悪いにしろ、音楽活動、ニーゴとしての活動、奏と付き合う上で必要だった嘘とまふゆ母は認識していますし、実際に大筋でそれは外れていません。

そんなわけないわ。だって少し前まではこんなこと、一度もなかったじゃない――

実際にはまふゆを苦しめていたのはまふゆ母の重圧なわけですが、まふゆ母にはそんな認識は微塵もないので当然まふゆが勉強をサボりそれを誤魔化すために嘘をつくようになったのはニーゴでの活動が始まってから、音楽活動という「遊び」を始めてからという「悪い友人からの影響」からであると認識しています。

これはまふゆが勉強を苦にしない・母親の言うことを全て聞いてくれる・嘘をつかない「いい子」であったという姿を母親に見せ続けてきたという前提をもとにしており、「いい子」のまふゆこそがまふゆ母にとっての子供の頃からずっと見てきた真実のまふゆであり、自分から勉強より遊びを優先したい・音楽が勉強よりも大事と言うような子では絶対になかったからです。
であるからこそ、まふゆの言葉はいい子である「まふゆ自身の言葉」ではなく嘘をつく悪い子、「宵崎奏に影響されたまふゆの言葉」としてしか響かないわけで、そしてまふゆ母から見た宵崎奏は勉強の重要性を認識していない・まふゆの夢を全く理解していない・そしてまふゆに強引に音楽活動をやらせている人間です。

だからこそ、まふゆが成績を下げ、嘘をつくようになり、音楽活動という遊びを続けたいと言い、医者も目指したくないと言い始めた、これはまふゆではなく奏の言葉だという認識を持つのは無理はないです。

無理にお友達を庇わなくていいの

いやそんなわけねえじゃん自分の娘の言葉だぞ常識で考えろと言いたいところですが、ここで朝比奈まふゆの性格、悪い言葉を使うならば「異常性」を改めて考えていきましょう。朝比奈まふゆは残念ながら常識的な子育てが通用する普通の女の子ではありませんでしたという話をする必要があるでしょう。

朝比奈まふゆの「共感性」とまふゆ母の「過干渉」

まふゆの持つ異常な性質、それは高すぎる共感力であり、かつそれは他人の期待に応えるという行動をも伴っているということです。
例を挙げれば「父や母の期待に応えようとすること」であり「クラスや先生や部活の仕事を絶対に断らないこと」などですね。まふゆの悩み自体には気が付けなかったまふゆ母ですが、このまふゆの性質・性格が度を超していること自体はある程度把握していたと考えられます。

『灯のミラージュ』(2021/09/21~)では、学校で仕事を背負いすぎるまふゆに釘をさすようなセリフが見られました。

……うん。わかった。負担になりそうだったら相談してみるね(まふゆ)

ここでのまふゆの返答「負担になりそうだったら相談してみる」は嫌だという自分の意志も自分から断る気もないが母親の心配には配慮しているまふゆの性質が色濃く出ていて面白いセリフです。
『灯のミラージュ』では実際様々な人に頼られ過ぎて体調を悪化させてしまったまふゆですが、まふゆがこのようなあらゆる他人の期待に応える「いい子」であろうとするのは幼少期の遊園地でのトラウマからであり、まふゆをずっと見てきたまふゆ母もまふゆが「自分から嫌といえない」ような性格なのはある程度わかっていたでしょう。まふゆは優しすぎるから…。「嫌なら嫌といえ」、絵名が何度もまふゆを心配して言ったセリフでもあります。

何の話をしているかというと、つまりは「まふゆに『音楽活動を一緒にしてほしい』と頼んだ友人がいた場合まふゆは無理をしてでもその期待に応えようとする」ということがまふゆ母には容易に想像できるんですよ。実際にはまふゆの音楽活動は自発的なものであって、その読みは誤解ではあるのですが、まふゆ母はその点を正確に把握できていないでしょう。
そんな「嫌といえないまふゆ」を守るためにはまふゆ母はある程度友人関係に自分が干渉する必要がある、という自覚を持っており、これがまふゆ母の過剰な干渉を生んだ理由の1つではあるでしょう。実際まふゆ母が動かなかったらまふゆが苦しまなかったにしても勉強サボって音楽やってたのは事実ですしね。

また、まふゆの他人の気持ちを感じすぎる共感性の高さは自我の薄さにもつながっています。この自我の薄さが理由でまふゆはまふゆ母の「いい子であれ」というある種の洗脳をすんなり受け入れてしまったわけですが、逆に考えるとこのまふゆの感じやすさをまふゆ母が自覚しているならば、まふゆ母は絶対に「正しい選択」を娘に与えなければいけないというプレッシャーをもってまふゆに接しているわけで、それが医者の道であったりこうあるべきだという圧のかけ方だと考えると、案外まふゆ母はなるべくしてこうなるしかなかったのかもしれませんね。「子供の自主性を重んじろ」みたいな話ではあるんですけどまふゆの自主性は客観的に見てあまりにも普通の子供に比べて危うすぎる。

「お母さんがどう思うか」「お母さんを悲しませたくない」はまふゆのモノローグで何度も出てくる共感性の高さと行動原理を示していますが、まふゆ母もまふゆがやるべきことを考え、まふゆの幸せのためにそれを押し付ける必要を感じていたと考えると、なんだかんだ似た性質を持つ親子ではあるんですよね…まあ優しさという言葉でくくるにはちょっと行き過ぎてしまいましたが…。

しかしまふゆはここにきて変わろうとしていました。自分の意志を表に出して、自分のやりたい道を母親の決めた道を否定してでも伝えようとしている。

音楽をやめるのも、奏達と一緒にいられなくなるのも――

しかしまふゆ母はまだその変化を認識できず、受け入れることができていない。自分を無視して嘘をついて誤魔化そうとした言葉も記憶に新しい。まふゆ母の中には過去の主体性の薄いまふゆしかないから「他人に影響を受けて誤った道を選ばされている」として奏を否定し自分の選ぶ道の正しさを押し付けることしかできない。

お母さんなのよ!!

このセリフもまふゆが感じたような「子供の夢も想いも無視して自分の思い通りにできると思っている母親」として読むと普通に最悪ですが、「他人の言うことを何でも聞いてしまう子供を正しい道に引き戻そうとしている母親」として読むと多少はマシな印象になりませんか?そうでもないかな…まあどちらにせよまふゆにとっては普通に最悪ですからね…。まふゆもいつまでも子供のままではないんですよね。

とりあえずまふゆ母の話はこんなところでしょうか。
それはそれとして自分が責められて限界の状態でも最後まで母親を心配するまふゆはめちゃくちゃ良かったですね、異常で、でも優しくて…。

(お母さんを、置いて――? そんなの……私……でも……っ)

まふゆの共感性の高さと期待に応えたいと思う気持ちの根幹にあるもの、やっぱり「すべての人を・患者を救いたい」なんですよね。看護士という夢を目指す上でこれ以上の適正はないですし、ニーゴの、奏の「たくさんの人を救いたい」音楽にも連なっている。

それなのに、私は……っ

確かに自分の気持ちを伝えることは大事ですし、まふゆが自分の意見をだすようになったのは良い成長ですし、嫌なことは嫌だといい、母親を否定することは必要なことだったのでしょう。
それでもまふゆの中心にずっとあった「母親の期待に応えたい」「応えたかった」という想いだって嘘じゃなかったはずで、それを否定できずに痛みとして抱え続けるまふゆの姿はあまりにも美しく高潔で、親子の関係が決別ではなくなんかうまいこといってくんねえかなあと思わせるものがありました。

そんなこんなでまふゆもまふゆ母も変わっていく必要はあるのでしょうね。『仮面の私にさよならを』、そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

ほぼほぼまふゆ母の話だけして終わってしまった!このまま世界一のまふゆ母ファンサイトを目指します(?)。

『イミシブル・ディスコード』のまふゆのごまかしっぷりを見てちゃんとまふゆとまふゆ母は話し合う必要があるし話し合ったら上手く行くんじゃないかみたいなことを考えていましたが、いざやってみたら全然ダメでしたという感じですね。誰も悪くないと言えるような内容ではないですが…普通にまふゆ母が誤解してるにしても言い過ぎだよ~。

まあ今回のまふゆはよく頑張りましたよ。
まふゆの抱えるストレスはもう身体に影響出ていて治療が必要なレベルですししばらくはゆっくり休んでほしいです。

おわりだよ~