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さっき作った

プロセカ『ボク達の生存逃走』感想・読解みたいなやつ

『ボク達の生存逃走』感想書くぞ!

雑感

前ニーゴイベ、『イミシブル・ディスコード』の時にこれが前後編の前編で次イベでまふゆ母と決着するのかな~みたいな予想をしていましたが今イベでもまだまだ全然続く感じでしたね~。
maisankawaii.hatenablog.com
『イミシブル・ディスコード』の記事でも書きましたが、プロセカは結構「他人(特に親)は簡単に変えられないから自分が変わるしかない」の話を続けていますし、その中で奏や絵名のように立ち向かう姿を描きつつ、瑞希の過去である「逃避」を肯定する話を押し付けるのではなく1つの選択肢として与える姿勢、プロセカというか現代的な多様性の肯定だよな~と思いました。

それにしたって勉強してるふりで作業やるとか予備校サボって遊ぶ話、まふゆ母の悪性を強調することでバランスとってますけどかなりの非行だよな~。プロセカという作品の道徳倫理ってかなり善性に寄ってるのでニーゴ担当悪の道徳の教科書って感じだ…。

というわけで読んでいきましょう。

まふゆにとっての要素「逃避」について

さて今回のイベントは大雑把にまとめると瑞希がまふゆに「問題解決から逃げてもいい」という話を伝える話です。
しかしこの「逃げてもいい」と対極にある要素が『イミシブル・ディスコード』で語れています。KAITOが話した「殺される」ですね。

このまま、これ以上何もできないと思うなら、想いを殺して生きればいい

殺す、めちゃくちゃ言葉が強いですが、要するに「まふゆの意志を無視される」という話ですね。瑞希の言葉を借りれば「まふゆの気持ちを置いていってしまう」です。で、これに対してまふゆに母親との問題解決を先延ばしにする「逃避」をしていたら死ぬぞという脅しがかかっているわけですね。「今みたいに噛み付け」です。
そして、なぜまふゆが母親に意志を伝えることができないかというと、まふゆは「母親は自分のためを思ってやっている」という前提があり、「それをまふゆは受け入れられない」からと奏たちは考えています。ニュアンスとしては外れていないと思いますが、『迷い子の手を引く、そのさきは』(2022/06/10~)で描かれた幼少期のまふゆが経験しトラウマとして残っているのは、「母親の頼みを守れないと母親が悲しがる」であり、まふゆ自身が持つ「まふゆは母親に悲しんでほしくない」という優しい想いの要素もあると考えるべきでしょう。まあここには「母親が悲しまないためには”いい子”でなくてはいけない」という要素もあったのですがそこはもうだいぶ”悪い子”になってしまったという矛盾がまふゆを苦しめている要素の1つではあるのですが…。

今回のイベントでもルカが同様にまふゆの行動を促す表現をしています。

――結局、まふゆにこの状況を壊させるしかないって

ただルカの視点がKAITOと異なるのは、まふゆ1人ではどうしようもなく、他者の助けが必要という表現ですね。最終的にはまふゆが(母親との腹を割った対話を)やらなくてはいけないにしろ、それには他者の後押しが必要だろうという話です。
この辺のルカの描写、正論ではあるが露悪的に描かれている印象があり、それは「まふゆ母と同じ他人に何かを押し付ける」行為だからかもしれませんね。

…という前提の上で本題の奏、絵名のような直接的に何かを変えようとするやり方に対して瑞希に何ができるのかという話に入っていくわけです。
まずそのフックとして、「ニーゴというまふゆの居場所(逃げ場)が奪われる」という話が描かれ、それに対して「学校に居場所がなかったが家に逃げ場所はあった」瑞希が居場所を作ろうという話をするわけですね。

(ボクにとって家は――逃げ場所だった。家では、ありのままでいられたから)

そもそもの話、まふゆにとってニーゴが何故必要かという話に立ち返るべきなんですよね。
ニーゴのストーリーにおいて「奏の音楽でまふゆを救う」は絶対の軸としてあって、奏の視点・プレイヤーの視点で将来的にそれが描かれることは予想でき、「ニーゴによってまふゆは救われる」に意識がもっていかれがちです。しかし、それは奏視点の話であって、まふゆ視点においてのニーゴ・セカイは最初から「逃避先」「何もしたくない」つまり「消えたい」の意味合いから始まっているはずです。それはつまり「自分が変わる場所」ではなく「ありのままの自分でいい場所」「ただそこに居ていい場所」、つまり「救済の場」としての意味あいではなくそもそも単に「居場所」であることが大事なんですよね。
メインストーリーでのまふゆの「消えたがってるくせに」は瑞希に向けた言葉であり、まふゆと瑞希が同様に居場所がない存在であるという共通項は最初から描かれています。

まふゆが他者の救いを求めていない・救うことができないが、居場所が救いとなるという話は、『弓引け、白の世界で』(2022/12/21~)でも描かれましたね。

(でも……今は、それでもいいわ)

『弓引け、白の世界で』では、雫の差し伸べた言葉はまふゆに届かず、しかしただ2人で弓道というスポーツだけに集中して母のことを忘れ、そして「いい子のまふゆ」でも「ニーゴのまふゆ」でもない子供らしい負けず嫌いの一面という「自分らしさ」を見せたという結末は記憶に新しいです。まふゆ、ニーゴでも絵名いじるの好きだし結構やんちゃなところあるの好きなんですよね。
この辺の話も、今回のイベントを読んだうえで改めて考えるとまふゆというキャラクターにとっての「逃避」「居場所」の要素がしっかり置かれており、瑞希の「逃避」の提案を受け入れる土壌がずっとあったことがわかります。

瑞希にとっての要素「逃避」について

瑞希の話をしていきましょう。

(――向き合えないままだ)

さて瑞希といえば瑞希のパーソナルをニーゴに明かせないという話が初期イベからなんだかんだずっと続いています。
『ボクのあしあとキミのゆくさき』(2021/10/31~)でいつか話すみたいな話してそのままずっと話してないですからね。

いつか――話してもいいって思ったら、話して。それまで待ってるから

で、初期において自分のことを明かした結果「仲間が離れてくのが怖い」って話だったんですけど、そもそも昔と違って今は瑞希自身もそんなことはないってのはわかってるはずなんですよね。絵名は離れるわけないと言ってますし、そもそもまふゆと奏は気が付いていますからねおそらく…。

で、なぜ瑞希がそれでも明かさないかっていうと「明かした瞬間・明かそうとした瞬間にそれが確定するのが嫌」、つまり「自分で自分を定義したくない(というかできない)」んですよねおそらく。まあプロセカ自体がぼかしてるのであんま言及するのもあれなんですけど、これ単純な性自認をカミングアウトする話ではないわけです。「女装している男性」だろうと「性自認が女性」だろうと「どちらでもない存在」だろうとそれを言葉にした瞬間自分を枠にはめるなという瑞希の強烈な自意識がそれを忌避してるんでしょうね。まあこの辺の瑞希のパーソナルは今回のイベントの本題と関係ないのでこの辺にします。
というわけで「みんなにあわせたくない」は「枠にハマりたくない」すなわち「他人にも自分にも自分の気持ちを定義・分類されたくない」と言い換えてもいいでしょう。

(……もしかしたら、ふたりだって、話せばわかってくれるのかもしれない)

この瑞希の学校が嫌になった理由の1つである元友人たちとの邂逅ですが、前イベ『Re-tie Friendship』で描かれた「疎遠になった愛莉とその友人が勇気を出して声を掛けあったらまた仲良くなれました」という話に完全に逆行している反例でうお~~~~~ってなっちゃいましたね、声かけられても受け入れられんものは無理、愛莉は愛莉、瑞希瑞希でその枠に瑞希はハマらないんですよね。この辺はコンセプトとして共感を描くモモジャンと自意識を描くニーゴの違いという感じもあります。

で、まあそんな他人に理解されず自分を定義もできずに逃げ続けてきた瑞希ではありますが、逃げ続けてニーゴでの活動で自分の気持ちを表現として他人に伝える喜びを知り、ついに多少なりとも自分は自分のままで、自分を肯定できるようになったわけですね。

(逃げて……逃げて、逃げたから、ボクは、ボクの――心を守れた)(みんなと、出会えたんだ)

そういった意味でいえば、瑞希は他人の気持ちを無視して自分の気持ちをずっと守ろうとしていて、まふゆは自分の気持ちを無視して他人の気持ちをずっと守ろうとしてきたわけで、ここに関しては真逆で対照的な存在と言えるのでしょうね。面白い…。

だからこそ、ここまで瑞希が決して他人に・友人に明かそうとしなかった「自分」の逃避という経験を、そして感情をまふゆという「他人」に伝えようとしたことは第三者が感じる言葉以上に単純な話ではなくめちゃくちゃにすげえ話なんだと思います。

逃げることが必要な時もあるって、ボクは思う

瑞希の逃避は、結果的に瑞希を救っただけであって、自分が救われるためにした行動ではありませんでした。だからまふゆも「自分が救われるために逃避を選ぶ」ということはないのでしょう。
ただ、この瑞希の言葉が、ニーゴの活動であったり弓道部であったりといったまふゆがこれまでしてきた・今まさにしている・これからもしていくだろう逃避に対する罪悪感を少しでも軽くしてくれたらそれは正しいことなのでしょうね。

その時間があったから、今こうしていられてる

繰り返しになりますが、瑞希の提案「逃げてもいい」について、瑞希たちからみたら逃げることもできず親に追い詰められてるまふゆですが、まふゆはなんだかんだいろんな形で逃避ができているわけで、逃避という選択肢が肯定されるということ、みんながまふゆのことを心配していることがまふゆに言葉として伝わったことこそが重要なのかもしれませんね。

でも、いつだってボク達はまふゆの味方だよ。だから……

セカイで待ってる、Journeyの歌詞回収や!
youtu.be


きみにない涙も きみにない弱さも
ぼくは持ってるけど ずっと セカイで待ってる

悩みながらだって大丈夫 立ち止まったって大丈夫
ぼくらはまだここから歩いていける
泣き顔もなんかいい感じ 笑えたらもっといい感じ
行こうよ きみとぼくで

瑞希から見たきみとぼくの話なんだよな…。セカイが2人にとって罪悪感を抱くことなく平穏でいられる居場所になれたらいいよね。
ボクの生存逃走じゃなくてボクたちの生存逃走なの、めちゃくちゃ良いタイトルだね~とそんな感じでどうでしょう。

おわりに

さてこれで絵名奏瑞希と3人が立て続けにまふゆ母と対決?したわけですが次で流石にまふゆvsまふゆ母ですかね~、楽しみすぎ!


なんか特に書くタイミングなかったから今書くけど瑞希の逃亡先でありであり救いであり友人との居場所であり理解の象徴である屋上がニーゴの活動場所として共有されるのエモすぎ!

終わりだよ~。