なんもわからん

さっき作った

プロセカ『隣に立つ、優しいあなたへ』感想・読解みたいなやつ

『隣に立つ、優しいあなたへ』感想・読解書くぞ!

雑感

第一感としては「すげーイベストきたな…」という感想で、というのもここまでプロセカのイベストって2キャラをつなぐ想いを描いたときに基本的には一方通行とまではいわないにしても自分だけの相手への想い×2が交差するストーリーを描いてきたと思っています。端的に言うなら2人の共感だったり相手に影響を受けること・影響を与えることを描くときも根本的に同じ方向を向いていても「私の想いは他人に侵されない」を大事にしてきた作品だと思っているので。それに反して今回のイベストはその枠の中でもかなり2人の想いが通じ合っている方だな…という感覚があります。とはいえ共感はレオニの領域といえばまあそうですし、今回のイベスト自体「想いに応える」がメインのテーマではありますからね。この構成自体もまあまあ珍しいなという感じではありますが、そういう関係性がまずユニットの中でなく越境の組み合わせできたことにもかなりの意外性がありましたね。

奏と穂波をつなぐ「優しさ」について

今回のイベント、終始かなほなイチャついてたな…という感想が第一で何を読解していこうか迷うところではありますが、とりあえず奏と穂波をつなぐ共通点であり2人がお互いをリスペクトしている要因、今回のイベントストーリーのタイトルにもなっている「優しさ」から見ていきましょうか。

奏と穂波の優しさとは何かというとこれは一般的な優しさの意味というよりは純粋に「他人を助けようという気持ち・行動」であることに異論はないでしょう。奏の「たくさんの人を自分の音楽で幸せにしたい」穂波の「どんな友達も裏切りたくない・力になりたい」はメインストーリーからずっと描かれている題材であり、そこには共通項として「たくさんの人を助けたい」があります。
しかしここを深掘りしていくと、2人の想いの根幹には少し違いがあるでしょう。

穂波の優しさは、昔からの友人も今の友人も等しく大切にしたいというような博愛精神からきています。メインストーリーでの穂波は他人の意志を汲みすぎるあまり自分の優しさを抑圧するという人付き合いをしてきましたが、その後のイベントストーリーではむしろその気持ちを積極的に表に出す「他人に向けた優しさを抑圧しない」を描いていると思います。助けを否定する志歩の意志を無視して強引に助けにいった『揺るがぬ想い、今言葉にして』(2021/11/11~)なんかはこのイベントの構図に近いんじゃないでしょうか。

本当に、ただのおせっかいなんですけどね

反面、奏の「音楽によってたくさんの人を救いたい」という願いは、自分の音楽が父親を追い込んでしまったという後悔と、父親が最後に残した想いを引き継いだものであり、奏の中心にある想い、家族への想い・そしてまふゆを救いたいという想いという「特定の人に向けた優しさを多くの人に向けて広げる」という過程で作られたもの…という観点で見ると同じ優しさでもそれを誰に向けるかという部分には差異があります。

今回のイベントストーリーでは周りの人に優しさを発揮する穂波と、奏のまふゆや父親に向けた優しさが周りの人には向いていない・向ける余裕がないという対比がキモになってきますね。お互いたくさんの人を助けようとしている2人ですが、今回はシンプルにまふゆを心配する奏を心配する穂波という単一対象の構図で見ていくのが読みやすいでしょう。

また、このイベストでえむが登場するのも良かったですね。えむも「たくさんの人を笑顔にしたい」という夢を持っており、そのために動いているという構図は奏の想いと通じるものがあるでしょう。ワンダショのイベストでは現在世界のステージを目指す仲間とフェニックステージに残るえむ、という構図が展開されていますが、このえむが具体的に自分の夢のために何をしているのかという部分はあまり描かれていませんでした。それがここで父親の会社を手伝い勉強しているという企画運営の「プロ」として努力している顔を見せたのはえむという天真爛漫で子供っぽいキャラクターとのギャップという意外性があって実によかったです。

じゃあえむちゃんって、もしかして鳳グループの娘さんなの!?(瑞希

えむが祖父の想いを継ぎ、父の仕事を継いでいるという構図を奏が父の夢を受け継いでいる姿と重ねてみるとまた一つこのイベントに深みが出たと思います。

さて、残る1人、瑞希がこのイベントに参加したストーリー構成上の意味とは何か考えてみましょう。それは当然穂波と同じく奏という仲間を心配する存在としてでしょう。喫茶店での穂波と瑞希の会話であったように、瑞希たちニーゴのメンバーの手の届かない部分を穂波が心配してくれて、そして穂波の見えない部分で奏をニーゴのメンバーたちが少しづつ変えているという会話には奏を支え・心配するもの同士としての良さがありました。

ボクが言うことじゃないけどさ、これからも奏のこと、よろしくね

直近のニーゴイベスト、『ボク達の生存逃走』(2023/04/30~)で過去の友人たちと向き合えなかった瑞希が、今回同じ趣味を持つ友人として穂波と仲良くなったのもいい話ではありますね。今回のイベント自体が気分転換というある意味「逃げ場」の中で答え(?)を見つけるというストーリーなのも『ボク達の生存逃走』からの流れを汲んでいてテクい構成だと思います。
瑞希はプロセカにおいて自意識と他人の否定をテーマに描かれてきたキャラクターであり、そういったキャラクターの純粋に仲間を心配しているという優しさを描くことがニーゴという居場所がくれたいい方向の変化として、奏にも重なるのかもしれませんね。

このイベントの『結婚』が描くものとは

このイベントは隣人への優しさがテーマではありますが、では結婚が意味するものは何でしょうか。
各キャラクターの優しさの話を前述しましたが、今回のイベストでは基本的には穂波→奏の優しさがストーリーではメインの軸になります。
穂波の優しさ、そして奏の欠落。奏の衣食住を補完するその役割は、奏が失った両親の代替であると言ってよいでしょう。
現在ニーゴのストーリーにおいて、奏の父は我を失っていますし、まふゆ母という「誤った親」という存在が描かれています。それに対比して「正しい親」の代替として奏を支え・心配し・導く無償の愛の姿を描いているのが奏にとっての穂波という存在ではないでしょうか。

そして結婚とは、家族となること。つまりこの結婚式体験によって疑似的に「奏という子供を支える正しい家族」として穂波の存在を描いている…とまで言い切ると流石に読みすぎかな、「両親との関係を失った子にも親と同じように同じような愛を注いでくれる友人・パートナーが現れる」くらいにしときましょうか、まあ読み方の方向性としては大きく外してはいないでしょう。

これを踏まえて改めて穂波→奏の行動を見ていきますと、「良かれと思って特に相手の趣味でないことを提案する」なんかはまふゆ母の親としての行動として対比していますし、「正しく体調不良を見抜いている」「息抜きの必要性を感じている」あたりは逆に正しさとしてまふゆ母とは違う行動を描いていると思います。

さて母性ともいえる穂波→奏の優しさですが、奏はその優しさにうまく応えられていません。

(宵崎さんに楽しんでほしいなと思ってたけど――逆に、気をつかわせちゃったみたい)(穂波)

これは、奏は穂波との関係を仕事上の関係として距離を置いているからという気持ちに加えて、奏の中にはまふゆや父親への想いが第一にあり「心配はしてくれても曲を作り続けることはやめることができない(からまた心配をかけ続けてしまう)」という申し訳なさ、親から子に与えられるような優しさにうまく応えることができない≒両親との関係を失っている。という現状を示しています。
親との関係、子供の方からも歩み寄りがないと成立しないみたいな話ではありますよね。

そしてこの関係が結婚式体験でのメインイベント、鐘を鳴らしにいくシーンで変わるわけですね。他人が身内になるのが結婚です。
みんなが自分のことを心配してくれるという想いをショーの中でしっかり受け止め、申し訳なさではなくきちんと応えたいとして、奏は動きます。
作中でも説明があったように、1つ目の鐘は自分たちに祝福と感謝を込めて、つまり穂波と奏です。穂波の優しさ・心配に応えることと奏がちゃんと自分自身を大事にするということで、この2つは同じ意味なんですよね。う~んこの構図は素直に上手い。

(――感謝と祝福の鐘の音……。この綺麗な音が、宵崎さんにちゃんと届いて、本当に良かった)

3回目の鐘はきてくれたみんなに向けて、えむと瑞希ですね。曲作りを第一にして回りに目を向ける余裕がなかった奏が、ほんの少しだけ周りにも目を向ける余裕ができたという話がこのイベントストーリーのキモでしょう。

2回目の鐘は両親に向けて、まだ奏は両親と向き合うには早いでしょう、だからこそここは瑞希とえむが変わりに鳴らすという意味合いとなっています。うーんどエモいな。瑞希が辛い時代に逃げ場を与えてくれた両親に・えむの夢を共に歩んでくれる両親に…感謝。

そんなこんなで帰宅後エピローグ。
穂波の疲れを見て休憩を提案する奏のシーン。穂波を慮るのも、一緒に自分が休憩するのも、このイベント前の曲作りに追われて焦っていた奏にはできなかった提案と考えると本当に良いシーンだと思いますし、穂波が奏を休憩させようとしたシーンとの反転対比でもあります。穂波のように他人を想い、花を贈る。その優しさこそが、まふゆや父親を救う曲作りにもつながっていくのではないでしょうか。

共に食事を作るシーンもいいですよね、家族を失った奏にとって暖かい家庭のメタファーであり、新しい関係・家族の呪いからの脱却、結婚式は両親からの独り立ちという意味合いもあるのかもしれません。隣に立つ、優しいあなたへ。そんな感じでどうでしょうか。

(――これからも、そばで支えていきたいな)

おわりに

いや~真面目に内容の話してたけどこのイベント突然のプロポーズが多すぎるだろどうなってんだよびっくりするだろうがよ。
穂波が奏の両親と対比してるって視点、実は記事書きながら思いついたんですが結構面白い読解なんじゃないでしょうか。いかかがでしたか?(いかがでしたかブログ)

おわりだよ~。

プロセカ『カナリアは窮境に歌う』感想・読解みたいなやつ

カナリアは窮境に歌う』感想読解書くぞ!

雑感

基本的には寧々が頑張ってステージ成功しましたという話ですね。
主な見どころとしては「寧々というキャラクターのステージ・歌に対する泥臭い想い・努力・ハングリー精神」、「歌という他メンバーがついていけない技術を語る上での他メンバーとの関係」といったところでしょうか。

話としては比較的シンプルな構成ですが、寧々のステージにかける情熱、そして前キーイベ『天の果てのフェニックスへ』(2023/03/11~)から続く劇中劇、30周年記念公演「ハッピーフェニックス」のステージ描写は『天の果てのフェニックスへ』に引き続きステージ/演劇という芸術の面白さ・演技の面白さ・そしてその中にある歌の意味合いをしっかりと感じさせてくれる描写で、演劇という題材を取り扱う上でこれ以上ないものを見せてくれたと思います。
というわけで見ていきましょう。

maisankawaii.hatenablog.com
前に書いた『天の果てのフェニックスへ』の記事も貼っておきます。
ワンダショにおける30周年記念公演がどういう立ち位置のステージとして描かれたのかみたいな話をしてたような気がします。

寧々にとっての「歌唱」の崩壊

さて、今回のイベントの導入は寧々が自信を持っていた「歌」が演出家に否定されるところから始まります。

(歌だけは青龍院さんも認めてくれて……、わたしの得意なもので、わたしの武器なんだって)

寧々はクールな性格に反して歌には真剣なキャラクターです。今回のイベントでも引用された初期イベントの『聖なる夜に、この歌声を』(2020/12/20~)は青龍院櫻子の歌を聴いて自分の歌に感情演技が足りないことを認識し、それを今までの寧々にはなかった必死の努力を描きつつ克服することで櫻子に自分たちを認めさせることが描かれました。
また、今回のイベントで登場した風祭夕夏とのイベント『マーメイドにあこがれて』(2021/08/20~)では歌によるアドリブでトラブルを乗り切るなど、寧々にとって歌は過去の経験に裏打ちされ、また最も情熱を持つ自分にとっての武器として描かれています。

寧々の夢は『絶対絶命!?アイランドパニック』(2022/06/20~)で語られたように世界で歌うミュージカル女優になることであり、その夢を叶えるためには歌だけでなく司や青龍院のような演技力を身に着けることが不可欠です。『天の果てのフェニックスへ』では2人の演技力に圧倒される寧々が描かれており、その2人に影響を受け演技力を磨いていたのですが、その練習において演出家に演技力は認められ、歌が否定されたというのがこのイベントまでの流れとなります。

ここを読む上でポイントになるのは寧々の肯定された演技は別に手放しで褒められた評価ではないというところですね。寧々の主観として「演技は認められたが歌が否定された」という読み取り方をされていますが、演出家の評は「演技は、悪くなかった」「歌は、今のままでは駄目だな」であり、演技は及第点としての評価を貰えたという意味合いでしかないでしょう。
これは、寧々の役である「臆病なカナリア」役は歌による見せ場はあるにしろあくまでサブキャラクターであり、歌以外のシーンにおいて司のリオ役や櫻子のフェニックス役ほどの演技力は要求されていないという一面は正直あるのでしょう。サブキャラクターはあくまで舞台装置であり、そしてカナリアの舞台装置としての役割である「歌」こそを演出家は重視しているために歌に対するダメ出しが出たのではないでしょうか。
寧々は司や櫻子に対抗心を持って演技力を磨き努力していましたし、もちろんその努力が実を結んだ結果として寧々の演技力は成長し、彼らとの距離は縮まり、それは彼女の夢に対する努力としてはとても素晴らしいものなのでしょう。しかし「このステージにおいては」演出家はさほどそこを重視していません。客観的に考えて同じサブキャラクターとして舞台に立った類やえむの演技力は司や櫻子はもちろん寧々に及ぶべくもないと思われますが、それでもこのフェニックスステージは成立したわけですからね。

――、それって……私の歌が、この劇を壊すかもしれないってことですか……?

そして歌に関しても、演出家は寧々の歌を単純に技術不足と否定したというよりむしろ寧々の歌に魅力があり過ぎる、すなわち個性が強すぎるからこそ、演出家はこのステージにおいて寧々の歌を否定しなくてはならなかったという意味合いはあるでしょう。まあそれも歌の技術といえば技術なのですが…。
この演出家の指摘は「歌い方の癖」と寧々に解釈され、あとで夕夏に指摘されるように自分の声質に固執しすぎていたという話なのですが、それは要するに歌において役に徹することができていなかった、という意味ですね。これは歌においてキャラクターという役に入れていないという意味だけではなく、演出・舞台装置としてのカナリアの役割に入れていないという意味合いです。
「キャラクターの理解・役に入り込むこと・心情を正しく理解すること」はここまでワンダショの、司のストーリーの課題としてひたすら書かれていたものです。そして寧々は「臆病なカナリア」というキャラクターをかなり理解しそれを演技として昇華できています。作中で説明されたように、カナリアが最初に歌うシーンでのカナリアの心情は「好きなように歌う・自分の気の向くまま、楽しく」です。司は役のキャラクターと自分のキャラクターのギャップによりキャラクターの心情理解に苦しんでいましたが、寧々と「臆病なカナリア」というキャスティングは逆に「寧々の心情に合致しすぎている」んですよね。だからこそ演技としてキャラクターを改めて作る必要がなく、歌から寧々のキャラクターが漏れ出てしまい、結果として歌う時の演技と歌っていない時の演技に差が生まれている。寧々の課題となったのは今までワンダショのストーリーで描かれてきたキャラクターと共感する心情理解でなく、演出家のいう「劇の全体像を捉える」視点なわけなんですよね。この辺の話はこのイベのサブテーマである「ワンダショの他メンバーが参考にならない」にも連なっているかもしれません。
フェニックスステージキャストによるオオワシと魔女とフェニックスの歌唱シーンにおいてキャストとキャラクターがしっかりと分離して評価されていることからもそれは伺えます。

まあ要するに遠回りになりましたが言い方の問題であって寧々に足りないのは結局演技力ではあるんですよ。セリフだけでなく歌においてもしっかり演技・キャラクターと舞台の理解を維持しろという話です。

それはそれとして歌を否定されたという事実は寧々にショックを受けます。そして櫻子や演出家の言葉通り「歌の癖」を探るわけになります。

ミュージカルが苦手な人で、『お芝居の中で突然歌いだすことに、すごく違和感を覚える』って言う人がいるけど……

結論としてそれは先に述べたように歌唱に演技が載ってないという話で、それはあっさり夕夏に教えられるわけなんですが、そこにたどり着くまでのなりふり構わない過程には鬼気迫るものがありました。

どんな小さなことでもいいんです。アドバイスをもらえませんか

そしてその歌に対する貪欲さは問題点である「歌の癖」の改善に留まらなかったというのが素晴らしいですよね。
この話の構成であれば「歌の癖」を改善したらそれをステージで披露して公演成功としても良かったはずです。
しかし今回のイベントストーリーは今回の寧々を悩ます問題点となった歌の癖の解決は見せ場としてではなくさらっと回想で流されているのかなり攻めた構成ですよね。

これはこのイベントが「寧々の歌唱の課題」ではなく「寧々の歌に対する想い・真剣さ」を描いたストーリーであるからに他なりません。
自分のアイデンティティである歌という技術を否定されても逃げずに真剣に、しかし成果の出ないゴールの見えない努力を続け、否定されてもそれでも少しでも今下手でも一歩づつでも上手くなりたいという気持ちで歌った寧々の歌を聴いた憧れの人である夕夏からのただ一言、「すごく上手になった」。歌と努力と人生の肯定、反転。否定の否定。これなんだよな~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~。

すごく成長した。……たくさん努力したんだね

このイベントで徹底的に自分の歌に向き合い悩んできた寧々を描いてきたからこそ、その迷走ともいえる自分の歌の全てを見直す姿勢が描かれていたからこそ、それだけ歌に対する情熱と努力があったからこそ夕夏は寧々を認め、成長したいという想いに応えることを選んだんですよね。
だからこそ今回問題になった「歌の癖」だけじゃない、夕夏が寧々に叩き込むのは寧々が努力してきた歌についての「全部」になるんですよね。歌に対する自信の崩壊と再構成、圧倒的成長…。

ワンダショというメンバーの限界

さてもう一つ、今回のストーリーには寧々の歌と並行して描かれるテーマがあり、それがワンダショという居場所の限界です。

今回のイベントストーリーで、寧々が抱える歌の悩みについてワンダショの他メンバーはいいアドバイスができず、寧々に応援のメッセージを送ることしかできませんでした。
そして寧々の歌が抱える問題もワンダショで公演をしているだけでは明らかにならなかったでしょう。
寧々の悩みを解決するヒントになった夕夏とのコネクションをつないだのも櫻子という外部のメンバーですし、そもそも寧々に演技力を磨く必要があるという刺激を与えたのも櫻子やフェニックスステージの役者たちでした。

特に私は、演技だけじゃなく歌についてもエキスパートよ?……あなたも知っているようにね

ワンダショの中で公演しているだけの今まではそれでも問題はなかったのでしょう。しかし世界で歌うミュージカル女優になるという夢に向かって歩みだした寧々にとって、今回のイベントで描かれたような外部からの刺激と成長は不可欠です。

公演終了後、司と寧々は外部からの刺激を受ける重要性と夢を語り合います。それはワンダショという居場所だけではもはや夢を叶えるために成長する場としては足りないという話です。

わたし、今回の公演で、もっともっといろんな場所で、いろんな人と一緒にお芝居したいって思った
えむくんは、もしもふたりがワンダーステージを出たいと言ったら……ついていこうとは思わないのかい?

そしてそれを見る類はえむに2人を追わないのかと問いますが、えむはそれを短い一言で否定します。えむは今の自分の想いを伝えるときは言葉をまとめずにしゃべる傾向がありますが、ここで一言で否定したということはえむはこれについて類に問われる前からずっと考えいつ聞かれても笑顔で即答できるように決めていたということの示唆に他なりません。えぐすぎる。

今回技術面で寧々の力にはなれなかったワンダショメンバーたちでしたが、それでもメッセージでの応援で寧々の心の支えとなることはできました…という部分をワンダショという居場所の『価値』としてどう評価するべきかですよね。確かにそれは仲間との関係として必要かもしれませんが、過去の周り全てを巻き込んで大きくなっていくようなワンダショという居場所のパワーをまた見せて欲しいところです。

披露劇中劇『ハッピーフェニックス』の中で、”限界”を超えたカナリアの歌の働きによりリオとフェニックスは別れを否定し、共に立ち向かい全てを勝ち取る道を選びました。
さてワンダショという居場所の”限界”、ワンダーステージを守りたいというえむの夢といずれ世界に羽ばたきたい3人の夢という別れを否定し両立できる道があるのかどうかという感じでどうでしょう。

早く上がって来なさい。私のところまで

おわりに

いや~スポ根!

そんな感じで~。

プロセカ『船出の前のワンデイトリップ』感想・読解みたいなやつ

『船出の前のワンデイトリップ』感想書くぞ!

雑感

今回は前々イベにして前モモジャンイベ、『Re-tie Friendship』で描かれた「アイドルと友情の二者択一」という愛莉とみのりへの問いを改めて遥に問う形のストーリーであり、ストーリーラインとしてはかなりシンプルな話でしたが、レオニのテーマである「関係は変わらない」「永遠」をモモジャンのテーマ「想いは消えない」「復活」に重ねたのは純粋に混合イベとしての良さがありましたね。
というわけで早速見ていきましょう。

『アイドル』という非日常と『普通の学生』という非日常

さて、先に書いたように今回のストーリーのキモとしてある「アイドルと普通の学生の視点」のギャップ・背反性は、『Re-tie Friendship』で愛莉・みのりの視点で既に描かれたものです。
maisankawaii.hatenablog.com

『Re-tie Friendship』の中で遥は「アイドルとしての視点」から単位制に戻ることを選択するキャラクターとして描かれており、その中に一切普通の学生の葛藤は描かれていませんでした。
これは遥の持つ「アイドルに対するストイックさ」と「先輩アイドルとして既に普通の学生としての立場を持っていない」キャラクター性を強調しており、普通の学生としての記号を持つみのりの悩み・選択との対比を際立たせるものだったと思います。

(だからもう、こういうことに参加できるのは今回が最後になるのかもしれないな)

今回のイベントでの普通科の思いを語る様子からも、「普通の学生」としての生活が終わることに対してある種の達観・諦めが感じられます。
そんな遥の過去でなく現在の「普通の学生らしい友情」に対する想いを描く今回のイベントは、『Re-tie Friendship』で描かれなかった遥の決断に対する内面描写の補足としての意外性が面白さの1つとしてあるのではないでしょうか。

さて、今イベで描かれる遠足ですが、これは当然遥の「普通科での普通の学生としての生活」のメタファーでしょう。『Re-tie Friendship』で愛莉がアイドルとしての生活と引き換えに失ったものですね。
要素としては「普通の学生生活」「一時的な楽しい思い出」「新しい友人との出会い」「限られた時間」などがそれに当たります。
遠足を最後の楽しい思い出にしようという遥の想いが、そのまま普通科としての生活も楽しい過去の思い出になるだろうという対比描写ですね。
遥にとっては「アイドルとしての生活」の方が普通であって「普通の学生」としての短い時間の経験の方が遠足のような非日常でもあるという相互のメタファーになってもいます。

一方でこの遠足は学校生活の象徴でありながら「学校の外」で描かれるものであり、遠足では普通の学生にはない「学校の外ではアイドル」としてのエピソードが同級生や遥に思い知らされるという「普通の学生としての遠足」「普通の学生らしくない遠足」の両面が描かれるのも面白いところですね。「学校を出たら(普通科生活が終わったら)もう普通の学生として生きられない存在」が浮き彫りになるんですよね。
それは同級生に対するアイドルオーラであったり、カレー屋でのロケ経験や飾られたサインだったりします。

……そんな、まじまじ見ないでよ。ASRUNにいた頃のだから、今とは違うんだし(遥)

来年の修学旅行への期待を語り将来を語る咲希たちに対する遥の「ちょっと頼んだカレーが辛かっただけ」、"辛いカレー"は過去のアイドル時代の記憶で、ASRUN時代の記憶で、それすなわち過去の思い出、もう戻れない過去・戻れない普通科の生活への想いですよね。未来から見たらこの楽しい遠足の思い出もカレー屋のサインのように過去の思い出になるのだろうという話です。

遠足の中で遥は子供たちに見つかり、その対応に追われます。このシーンは遥が普通の学生の本領ではなくアイドルとしての立場を優先しているわけなのですが、過去イベント『あの日の夢の、彼方向こうへ』(2022/11/30~)を思い出してください。

私はそれに……すごく勇気を貰えた

遥が憧れていたアイドルが、アイドルをやめてからもたくさんの人に希望を届けていたことを知り、より多くの人に思いを届けようと思った話ですね。
ちょっと強引な接続な気もしますが、遥もアイドルでない状態の「普通の学生」の立場であっても少しでも多くの人に想いを届けたいと願っているわけで、そこに遥にとっては公私の区別はあまりなく、プライベートでもアイドルとして立ち回り続けたいと思っているのがアイドル桐谷遥というキャラクターなのでしょうね。

ただ、そんな遥も咲希や一歌に対して悪いことをしているなとは感じているわけで、これは咲希や一歌もアイドルとしてのファンサービスの対象として見ているからなのではないでしょうか。

というわけでレオニの要素について踏み込んでいきましょう。

モモジャンが描く『変化』とレオニの描く『永遠』

さて、ここで少しモモジャンとレオニの方向性の違いについて考えてみましょう
モモジャンはざっくりいうと過去の居場所でのアイドル活動が上手くいかず、新しい居場所に変わったことで成功するというストーリーです。
だからこそ、モモジャン・遥のストーリーにおいて、「変化すること」、言い換えれば「自分の力で新しい環境に挑戦すること」「過去の環境での関係を切り捨てる/離れること」はポジティブな意味合いを持っており、普通科を離れて単位制になることは自然な流れと言えるのでしょう。この辺は転科に際して悩んでいたみのりにはない要素でしょうね。

一方で、レオニは環境が変わっても子供の頃に抱いた気持ちは同じというストーリーです。ここには話の主軸として「変化しないこと」「過去の関係を継続すること」が中心にあり、「変わらない想いは環境や時間の変化を超越する」どちらかというと環境の変化をネガティブ…とは言わないにしても軽視するストーリーを展開しているのではないでしょうか。

このレオニの「変わらない想い」要素は類似のエピソードがモモジャンにもあり、それがモモジャンのエピソードでほぼ毎回語られる「アイドルへの想いは消えていなかった」ですよね。そして『Re-tie Friendship』で描かれた要素は「友達への想いはアイドルへの想いと同じように消えない」であり、それはつまり「環境が変わっても友情・想いが変わらなくていい」これがレオニの要素と接続し「変わらない友情は環境の変化を超越する」まで持っていくことこそが今回のイベントでのキモの要素でしょうね。

さて要素を整理したところでイベントストーリーに戻りましょう。

それでも、桐谷さんと一緒に、遠足を思いっきり楽しみたい

ファンを優先する遥に、咲希と一歌は遥にもっと一緒に遊びたいという想いをぶつけます。「他人のために」「ファンの想い」を軸に話を動かすモモジャンの正反対、この強引さと身勝手さ、「私の想い」「私たちの想い」こそがレオニードのメインストーリーを動かしたんですよね、ここからはレオニードのターンです。

ここから「アイドル」の要素が一歌と咲希によって「普通の学生」に塗り替えられていきます。
「アイドルとして必要な変装」は、ただ「変装を建前にファッションショーを楽しむ普通の学生」に変わり、「ファンから逃げて乗った水上バス」も「お菓子の写真を上げる学生」に。

しかし遥も負けていません、それはもう「アイドルとのツーショ撮影会」になってしまいます。この辺の「普通の学生としてふるまう遥」と「アイドルとしての遥」が次第に分けられたものではなく1つになって行く感じ、良かったですね。

そしてレオニードの結成話を聞いた遥は不安に思いつつもしばらく会えなくなっても自分たちの友情は不変であると感じます。

(――どうってことないんだ)

この辺は過去の仲間と離れてしまったモモジャンのメンバーにとっても肯定できればうれしい話ではあるのでしょうね。

そして遥の行くことの出来ない修学旅行、これを咲希は自分たちで計画すればいいと提案します。
これマジで天才よな~、用意された枠がなければ自分たちがやればいい、これってモモジャンの文脈なんですよね、「やりたいことができる事務所がなければフリーで活動すればいい」ですよ。

遥の「仕事が忙しくて都合がつかないかもしれない」、「アイドル」としての理由を「一歌と咲希もバンドが忙しくなるから」という共通項でくくりつつ、オチとしてのソフトテニス部の「私達も部活があるから、お互い様」。

私も、遊びに行きたいな。みんなとなら――どこに行っても楽しいだろうし(遥)

ここ本当素晴らしいんですよね、アイドルとしての忙しさは特別でも何でもない、普通の学生だって暇じゃないし忙しいのは同じであり、だからこそ対等の友人としてこの友情が成立するんですよ。マジで良いシーンだと思います。プライベートでもアイドルであり続けた遥だからこそ、普通の学生もアイドルも変わらんという結論がすっと入るの、素晴らしい結実だと思います。

仕事で忙しくなるかもって伝えたんだけど、お互い様だって

名前呼び、同級生から友人へのクラスアップですよね。

モモジャン、「辛い過去」「新しい幸せ」を描いてきたからこそこれから新しい環境へと変わっていく遥が「過去になる普通科の思い出」を幸せなものとして残していける事実が、単純な「過去の再評価・肯定」とはまた別の文脈でいい話だったな、と思いますね。

(そうじゃなきゃ、こんな気持ちになれることも、こんなにみんなと仲良くなる機会もなかったから)

おわりに

いや~なんか今回作中で全部説明されてたから普通にいい話だったな~って連呼するだけの感想になっちゃったな!
おわりだよ~。

フロート・プランナー

プロセカ『ボク達の生存逃走』感想・読解みたいなやつ

『ボク達の生存逃走』感想書くぞ!

雑感

前ニーゴイベ、『イミシブル・ディスコード』の時にこれが前後編の前編で次イベでまふゆ母と決着するのかな~みたいな予想をしていましたが今イベでもまだまだ全然続く感じでしたね~。
maisankawaii.hatenablog.com
『イミシブル・ディスコード』の記事でも書きましたが、プロセカは結構「他人(特に親)は簡単に変えられないから自分が変わるしかない」の話を続けていますし、その中で奏や絵名のように立ち向かう姿を描きつつ、瑞希の過去である「逃避」を肯定する話を押し付けるのではなく1つの選択肢として与える姿勢、プロセカというか現代的な多様性の肯定だよな~と思いました。

それにしたって勉強してるふりで作業やるとか予備校サボって遊ぶ話、まふゆ母の悪性を強調することでバランスとってますけどかなりの非行だよな~。プロセカという作品の道徳倫理ってかなり善性に寄ってるのでニーゴ担当悪の道徳の教科書って感じだ…。

というわけで読んでいきましょう。

まふゆにとっての要素「逃避」について

さて今回のイベントは大雑把にまとめると瑞希がまふゆに「問題解決から逃げてもいい」という話を伝える話です。
しかしこの「逃げてもいい」と対極にある要素が『イミシブル・ディスコード』で語れています。KAITOが話した「殺される」ですね。

このまま、これ以上何もできないと思うなら、想いを殺して生きればいい

殺す、めちゃくちゃ言葉が強いですが、要するに「まふゆの意志を無視される」という話ですね。瑞希の言葉を借りれば「まふゆの気持ちを置いていってしまう」です。で、これに対してまふゆに母親との問題解決を先延ばしにする「逃避」をしていたら死ぬぞという脅しがかかっているわけですね。「今みたいに噛み付け」です。
そして、なぜまふゆが母親に意志を伝えることができないかというと、まふゆは「母親は自分のためを思ってやっている」という前提があり、「それをまふゆは受け入れられない」からと奏たちは考えています。ニュアンスとしては外れていないと思いますが、『迷い子の手を引く、そのさきは』(2022/06/10~)で描かれた幼少期のまふゆが経験しトラウマとして残っているのは、「母親の頼みを守れないと母親が悲しがる」であり、まふゆ自身が持つ「まふゆは母親に悲しんでほしくない」という優しい想いの要素もあると考えるべきでしょう。まあここには「母親が悲しまないためには”いい子”でなくてはいけない」という要素もあったのですがそこはもうだいぶ”悪い子”になってしまったという矛盾がまふゆを苦しめている要素の1つではあるのですが…。

今回のイベントでもルカが同様にまふゆの行動を促す表現をしています。

――結局、まふゆにこの状況を壊させるしかないって

ただルカの視点がKAITOと異なるのは、まふゆ1人ではどうしようもなく、他者の助けが必要という表現ですね。最終的にはまふゆが(母親との腹を割った対話を)やらなくてはいけないにしろ、それには他者の後押しが必要だろうという話です。
この辺のルカの描写、正論ではあるが露悪的に描かれている印象があり、それは「まふゆ母と同じ他人に何かを押し付ける」行為だからかもしれませんね。

…という前提の上で本題の奏、絵名のような直接的に何かを変えようとするやり方に対して瑞希に何ができるのかという話に入っていくわけです。
まずそのフックとして、「ニーゴというまふゆの居場所(逃げ場)が奪われる」という話が描かれ、それに対して「学校に居場所がなかったが家に逃げ場所はあった」瑞希が居場所を作ろうという話をするわけですね。

(ボクにとって家は――逃げ場所だった。家では、ありのままでいられたから)

そもそもの話、まふゆにとってニーゴが何故必要かという話に立ち返るべきなんですよね。
ニーゴのストーリーにおいて「奏の音楽でまふゆを救う」は絶対の軸としてあって、奏の視点・プレイヤーの視点で将来的にそれが描かれることは予想でき、「ニーゴによってまふゆは救われる」に意識がもっていかれがちです。しかし、それは奏視点の話であって、まふゆ視点においてのニーゴ・セカイは最初から「逃避先」「何もしたくない」つまり「消えたい」の意味合いから始まっているはずです。それはつまり「自分が変わる場所」ではなく「ありのままの自分でいい場所」「ただそこに居ていい場所」、つまり「救済の場」としての意味あいではなくそもそも単に「居場所」であることが大事なんですよね。
メインストーリーでのまふゆの「消えたがってるくせに」は瑞希に向けた言葉であり、まふゆと瑞希が同様に居場所がない存在であるという共通項は最初から描かれています。

まふゆが他者の救いを求めていない・救うことができないが、居場所が救いとなるという話は、『弓引け、白の世界で』(2022/12/21~)でも描かれましたね。

(でも……今は、それでもいいわ)

『弓引け、白の世界で』では、雫の差し伸べた言葉はまふゆに届かず、しかしただ2人で弓道というスポーツだけに集中して母のことを忘れ、そして「いい子のまふゆ」でも「ニーゴのまふゆ」でもない子供らしい負けず嫌いの一面という「自分らしさ」を見せたという結末は記憶に新しいです。まふゆ、ニーゴでも絵名いじるの好きだし結構やんちゃなところあるの好きなんですよね。
この辺の話も、今回のイベントを読んだうえで改めて考えるとまふゆというキャラクターにとっての「逃避」「居場所」の要素がしっかり置かれており、瑞希の「逃避」の提案を受け入れる土壌がずっとあったことがわかります。

瑞希にとっての要素「逃避」について

瑞希の話をしていきましょう。

(――向き合えないままだ)

さて瑞希といえば瑞希のパーソナルをニーゴに明かせないという話が初期イベからなんだかんだずっと続いています。
『ボクのあしあとキミのゆくさき』(2021/10/31~)でいつか話すみたいな話してそのままずっと話してないですからね。

いつか――話してもいいって思ったら、話して。それまで待ってるから

で、初期において自分のことを明かした結果「仲間が離れてくのが怖い」って話だったんですけど、そもそも昔と違って今は瑞希自身もそんなことはないってのはわかってるはずなんですよね。絵名は離れるわけないと言ってますし、そもそもまふゆと奏は気が付いていますからねおそらく…。

で、なぜ瑞希がそれでも明かさないかっていうと「明かした瞬間・明かそうとした瞬間にそれが確定するのが嫌」、つまり「自分で自分を定義したくない(というかできない)」んですよねおそらく。まあプロセカ自体がぼかしてるのであんま言及するのもあれなんですけど、これ単純な性自認をカミングアウトする話ではないわけです。「女装している男性」だろうと「性自認が女性」だろうと「どちらでもない存在」だろうとそれを言葉にした瞬間自分を枠にはめるなという瑞希の強烈な自意識がそれを忌避してるんでしょうね。まあこの辺の瑞希のパーソナルは今回のイベントの本題と関係ないのでこの辺にします。
というわけで「みんなにあわせたくない」は「枠にハマりたくない」すなわち「他人にも自分にも自分の気持ちを定義・分類されたくない」と言い換えてもいいでしょう。

(……もしかしたら、ふたりだって、話せばわかってくれるのかもしれない)

この瑞希の学校が嫌になった理由の1つである元友人たちとの邂逅ですが、前イベ『Re-tie Friendship』で描かれた「疎遠になった愛莉とその友人が勇気を出して声を掛けあったらまた仲良くなれました」という話に完全に逆行している反例でうお~~~~~ってなっちゃいましたね、声かけられても受け入れられんものは無理、愛莉は愛莉、瑞希瑞希でその枠に瑞希はハマらないんですよね。この辺はコンセプトとして共感を描くモモジャンと自意識を描くニーゴの違いという感じもあります。

で、まあそんな他人に理解されず自分を定義もできずに逃げ続けてきた瑞希ではありますが、逃げ続けてニーゴでの活動で自分の気持ちを表現として他人に伝える喜びを知り、ついに多少なりとも自分は自分のままで、自分を肯定できるようになったわけですね。

(逃げて……逃げて、逃げたから、ボクは、ボクの――心を守れた)(みんなと、出会えたんだ)

そういった意味でいえば、瑞希は他人の気持ちを無視して自分の気持ちをずっと守ろうとしていて、まふゆは自分の気持ちを無視して他人の気持ちをずっと守ろうとしてきたわけで、ここに関しては真逆で対照的な存在と言えるのでしょうね。面白い…。

だからこそ、ここまで瑞希が決して他人に・友人に明かそうとしなかった「自分」の逃避という経験を、そして感情をまふゆという「他人」に伝えようとしたことは第三者が感じる言葉以上に単純な話ではなくめちゃくちゃにすげえ話なんだと思います。

逃げることが必要な時もあるって、ボクは思う

瑞希の逃避は、結果的に瑞希を救っただけであって、自分が救われるためにした行動ではありませんでした。だからまふゆも「自分が救われるために逃避を選ぶ」ということはないのでしょう。
ただ、この瑞希の言葉が、ニーゴの活動であったり弓道部であったりといったまふゆがこれまでしてきた・今まさにしている・これからもしていくだろう逃避に対する罪悪感を少しでも軽くしてくれたらそれは正しいことなのでしょうね。

その時間があったから、今こうしていられてる

繰り返しになりますが、瑞希の提案「逃げてもいい」について、瑞希たちからみたら逃げることもできず親に追い詰められてるまふゆですが、まふゆはなんだかんだいろんな形で逃避ができているわけで、逃避という選択肢が肯定されるということ、みんながまふゆのことを心配していることがまふゆに言葉として伝わったことこそが重要なのかもしれませんね。

でも、いつだってボク達はまふゆの味方だよ。だから……

セカイで待ってる、Journeyの歌詞回収や!
youtu.be


きみにない涙も きみにない弱さも
ぼくは持ってるけど ずっと セカイで待ってる

悩みながらだって大丈夫 立ち止まったって大丈夫
ぼくらはまだここから歩いていける
泣き顔もなんかいい感じ 笑えたらもっといい感じ
行こうよ きみとぼくで

瑞希から見たきみとぼくの話なんだよな…。セカイが2人にとって罪悪感を抱くことなく平穏でいられる居場所になれたらいいよね。
ボクの生存逃走じゃなくてボクたちの生存逃走なの、めちゃくちゃ良いタイトルだね~とそんな感じでどうでしょう。

おわりに

さてこれで絵名奏瑞希と3人が立て続けにまふゆ母と対決?したわけですが次で流石にまふゆvsまふゆ母ですかね~、楽しみすぎ!


なんか特に書くタイミングなかったから今書くけど瑞希の逃亡先でありであり救いであり友人との居場所であり理解の象徴である屋上がニーゴの活動場所として共有されるのエモすぎ!

終わりだよ~。

プロセカ『Re-tie Friendship』感想・読解みたいなやつ

『Re-tie Friendship』感想読解書くぞ!

雑感

来ましたね~、プロセカ道徳の教科書シリーズ…。(そんなシリーズはない)
ストーリーとしては「仕事と学校の両立」、教訓としては「勇気を出して友達に話しかけてみよう」、テーマとしては「想いは消えない」あたりでしょうか。

話としてはシンプルだったかと思いますが、愛莉の過去話と友人との対話で描かれた悩みや不安の心理描写には本当に胸をえぐられるかのような繊細さがありました。

というわけで見ていきましょう。

桃井愛莉のアイドル性とは

さて今回のイベントストーリー、主役はもちろんバナーの愛莉ではあるはずですが、ストーリーの軸となる「仕事と学校の両立」「単位制への移行」の主役となるのは愛莉ではなく、みのりのはずです。これは単に話の都合上そうなった…というわけではなく、今回のイベントでの桃井愛莉というキャラクターの性質を描く上で「他人の気持ちを推し量る」こと、そして「他人へ口を出すこと」の難しさという2点がとても重要だったからだと思います。つまり、「みのりが悩み決断すること」に対して「愛莉が何を考えたか・どういう行動をするのか」がこの話の構成のキモなんですね。

今回のイベント、とにかく愛莉のモノローグがめちゃくちゃ多いです。比率でいうならモノローグ率過去一レベルなんじゃないかな…。
過去のモモジャンのストーリーにおいて、愛莉は高い自主性と行動力で提案をする優秀なアドバイザーとして描かれてきました。直近の愛莉バナー『青空の先、輝きを追いかけて』(2022/08/10~) でも自信満々にみのりにアドバイスする姿が見られましたね。その愛莉ですが、今回みのりにアドバイスする上でかなり慎重な態度をとっていることが繰り返し描かれています。

(何を選ぶのかは……みのり自身だわ)
(それを決めるのはみのりで、わたしは口出しする権利なんてないわ)

これはもちろん定時制になったことで愛莉が過去の友人との関係を悪化させてしまった、という理由で歯切れが悪いという理由もあるでしょうが、愛莉はとにかく相手の気持ちを慮り尊重することを第一にしているんですよね。自分の意見を相手に押し付けることを忌避してると言い換えてもいいです。『青空の先、輝きを追いかけて』でもアドバイスした上で「これは私のやり方だからみのりらしいやり方を探していってほしい」みたいなことを補足していますからね。

この辺の他人の決断に対する愛莉の「余計なお世話かもしれない(から口が出せない)」という繊細さが今回のイベントでモノローグによって強く強調されているのは、普段のぐいぐい回りを引っ張っていくイメージと直感的に反するものですが、思い返してみると「ファンの求めるもの・アイドルとしてのイメージ」を大事にしてきた・しすぎてしまった結果アイドルをやめることになった愛莉の過去から考えると結構自然なのかもしれないと思わされますね。

ここで愛莉と友人であるあゆみの出会いのきっかけの話を見ていきましょう。

だから、愛莉ちゃんがアイドルになりたいって話してくれた時も、変だなんて思わなかったよ。むしろ、愛莉ちゃんにはすごく向いてるって思ったんだ。

話し相手がおらず不安になっていたあゆみに気が付き、わざわざ声をかけてくれた愛莉の姿こそが愛莉のアイドル性であると語っています。ここで愛莉のアイドル性として強調されているのは、「不安そうなクラスメイトに声をかけたこと」も重要ではありますが、それよりも「他の人と話している中で、あゆみの不安に気が付いたこと」と見るべきでしょう。つまりは他人の気持ちを推し量る能力ですね。

しかしこの友情は2人がお互いを思いやり、行間を読みすぎたたために崩壊してしまいます。

え? あ……そうね!次は一緒に――

愛莉の他人を笑顔にしたい・不安を取り除きたいという強いアイドル性は、相手の笑顔を奪うような言動を強く忌避します。

うん。ありがとう愛莉ちゃん。気をつかってくれて(あゆみ)

そしてあゆみは、その逡巡を誤解し、遠足にいけなかった愛莉に対して無神経なことを言ってしまったと後悔します。そして、愛莉に弁明の暇を与えず楽しい遠足の写真の話をはじめるわけですね。これは誤解ではあるのですが、愛莉にこれ以上この話題を続けて悲しい気持ちになって欲しくないという話題の転換であって、そして愛莉も楽しい話がはじまったならそこで話を蒸し返して雰囲気を悪くするようなことは良しとしないんですよね。モモジャンは・愛莉は「笑顔を与えること」を散々描いてきたわけですが、逆説的に「笑顔を奪う」ような話題転換は良しとしないと考えるとここで口が出せない、友情の復元よりも笑顔を優先してしまい次第に盛り上がっていく楽しい会話を蚊帳の外で聴くしかない愛莉は本当に「プロ」の、学生ではなく職業人としてのアイドルになってしまったとして読むとめちゃくちゃ悲しいシーンなんですよね。

「友情」と「想い」の永遠性

(みんなと遊ぶ時間よりも、仕事を優先してきたのはわたしだし。あゆみに……ああ言われるのも……)

友人たちの輪に混ざろうとすることでその楽しい雰囲気を壊してしまいそうになったと感じた愛莉は、アイドルの道を選んだものとして、この時の気持ちを「寂しさ」と表現し、そしてこの疎外感から次第に友人たちと疎遠になっていってしまいました。

ふたりの間にできた、その想いのつながりは 簡単には消えたりしないと思うな

しかし、それをKAITOは友情は消えていないのではと語ります。アイドルをやめてもアイドルとしての想いが消えなかったように。

ここにきてモモジャンのテーマとしてある「不滅」そして「復活」を友人との絆に重ねてくるのアツすぎる!愛莉のセリフ「想いは消えない」天使のクローバーなんだよな。

先にも書いたように、愛莉は本来相手の気持ちに寄り添うことができるキャラクター・アイドルと考えると、1年前にあゆみの想いを見失ってしまっていたのは本領を失ってしまっていた状態、アイドルとして死んでいた状態であったためと読むと面白いかもしれません。

そして愛莉はあゆみに声をかけ、仲直りして友情を再確認してハッピーエンドという感じですが、この「声をかける」が友情のはじまり・広がり・再始動という対比になっているのもいいですよね。
「あゆみとの出会いで声をかけた愛莉」「あゆみとその友人に声をかけた愛莉」そして「仲直りのためにあゆみに声をかけた愛莉」。
「声をかけられること」が桃井愛莉のアイドル性であり強さなんだよな…。

わたし、これからも愛莉ちゃんと――ちゃんと友達でいたいんだ(あゆみ)

最後にみのりが想いを語ってエンドなのもいいですよね。ビジネスライクな「アイドル」としてなら愛莉の話もみのりの話も4人で共有する必要性はないわけで、でもここでそれを4人が聞きたいと感じた・聞かせたいと感じたのはこのイベントで語られた「自分の気持ちを伝えること」つまりビジネスではない、「友情」としての「アイドル」の絆であり、そしてこのイベントでの「友情」は「不滅」なわけで、それすなわち「MORE MORE JUMP!」が「不滅」であり「永遠」であるということの示唆なんだよねえ、つまりは改めてのRe-tie Friendshipという感じでどうでしょうか。

おわりに

「言葉にしなきゃ伝わらないから疎遠になった友達ともう一度話してみよう」なんて道徳の教科書みたいな話ではあるのですが、流石にここまで桃井愛莉というキャラクターとモモジャンのテーマに絡めて描かれるとめっちゃ面白かったですね。
なんかあーだこーだ書いたけど読んでた時はマジで仲直りできてよかったね~~~~~~~~以外の感情がなかった!

おわりだよ~。

プロセカ『Get over it.』感想・読解みたいなやつ

『Get over it.』感想読解書くぞ!

Leo/needの音楽について

待ちに待ったレオニワンマンイベ…って思ってたら結構サクっとワンマン終わりましたね。モモジャンのワンマンががっつり1イベ使ってた(『拝啓、あの頃のわたしへ』(20222/10/12~)のでわりかし意外ではありました。5月21日のレオニコネライ合わせでっていう意味もあるんですかね。

さて、早速ですがこのイベで描こうとしようとしていたのが何かというと、「Leo/needの音楽の本質とは何か」という問いなのですが、その前に「Leo/needというユニットが描くテーマ・コンセプトは何か」という問いについて考えてみましょう。その答えはメインストーリーからずっと今まで何度も語られてきた「友人と音楽がしたい・友人とする音楽は楽しい」ですよね。
次にここ最近のイベントストーリーで描かれた「Leo/needがどういう演奏をしてきたか」について考えます。

今は離れ離れになってしまっても、出会えた幸せを胸に、前に進んで行けるように――

『Live with memories』(2022/04/21~)では、観客2人に向けた曲を作り演奏しました。

一歌ちゃんの歌詞も、志歩ちゃんの演奏もそうです。たくさんの人の心に響かせたいっていう想いが一番に入っているんです

『No seek No find』(2022/07/21~)では観客に届く演奏ができず、しかし『Don't lose faith!』(2022/08/31~)にてうまくライブハウスの観客に届く演奏をすることができました。
このように「観客の心に届く・響かせたい作詞・作曲・演奏をしよう」というテーマが直近のキーストーリーで描かれてきたわけですね。

そして今回のイベントでワンマンを経てその2つのテーマ「みんなで演奏がしたい」「音楽を届けたい」のどちらを優先すべきかという問いを咲希は抱えます。

でもでも、みんなは朔さんの言うとおり『音楽を届けたい』が一番!って感じだったでしょ!?

結論としては咲希以外の3人も同じ気持ちは持っていて、最終的に咲希もこの両方の気持ちを抱えてプロになることを決断するわけですが、ここで疑問なのはなぜ咲希だけがここに折り合いをつけられなかったのかという点ですね。単純に想いの比重の話と考えてもよく、実際咲希にとってみんなとの演奏にかける想いの比重は高いのだとは思いますが、もう少しここを掘り下げて考えてみます。

時系列を少し戻しまして、この答えはワンマンの中の穂波のモノローグから察することができます。

(でも、わたし達にとって、Leo/needにとって一番大切なのは、そういうのじゃなくて)

穂波は、咲希の音を聞いて「Leo/needにとって一番大切なのは、今の咲希のような楽しいって気持ち・みんなで合わせるのが好きという気持ち」であると語ります。志歩も、そして朔もこの気持ちに同調する様子が描かれています。
つまり、咲希はその楽しさが自分の気持ちとしてしか感じられませんが、咲希以外は「咲希の楽しいという気持ちが一緒に演奏することで自分たちに伝播する」ということ、それが「自分たちでなく客席まで伝播していた」ことを感じていた、つまりは「みんなと演奏すること」の「みんな」の対象に客席を含み、そして「音楽を届ける」の対象に客席だけでなく自分たちが含まれることを実感しているんですよね。つまりはこの2つのテーマは背反したり選ぶものではなく、同一化できるという発想がここにきて出てくるわけです。この「Leo/needの2つのテーマの同一化」、もっと言えば「Leo/needの音楽の拡張」、言われてみれば確かにという感じではあるんですがそこに発想が届かなかったのでめちゃくちゃいいなってなりましたね。今までずっと描いてきた仲間との絆や届けたい想いが、自分たち、バンド内のものだけでなく聞き手にまで拡張するんですよ。

あの時みんなが曲に乗せた感情――『みんなと演奏するのが楽しい』って気持ちは、とても心に響くものだった(MEIKO

今までのイベストでは「自分が過去に抱いた想い」をベースに曲を作り、「客にそれを共感させる」という話が描かれてきたわけですが、そこには「演奏者」と「聞き手」という明確な区別がありました。しかし、このワンマンの「演奏していた楽しい気持ちが伝わる」一体感を経てその壁が取り払われる様子、一段階上にきたなというかめちゃくちゃすげえなって感じましたね。だってレオニ4人の絆って「離れても消えない仲間との永遠の絆」なわけでものすごいもんじゃないですか、その絆の輪の中に聞き手を取り込むことこそが「Leo/needの音楽の本質」なのであれば、それはもうものすごい音楽なわけですよ(進次郎構文)。

……うん。この感覚は、味わおうと思っても味わえないよね(志歩)

「お客さんとの時間がもっともっと続いたらいい」、ライブの感想としては平凡なものですが、これに「Leo/needの仲間たちとの絆のように」という要素がプラスされるだけで激エモセリフに聞こえてきませんか?レオニのライブ、いつかまた会える獅子座流星群なんだよな…。

この辺の「歌うもの」「聞くもの」の壁を取り払う流れ、前イベの『交響する街の片隅で』でのセッションも感じさせますね。

天馬咲希と真堂というキャラクター

話を戻しまして、その経緯についてはいろいろな解釈ができるかと思いますが、咲希は4人の中で1人だけこのプロになることへの怖さを払拭できませんでした。
咲希はレオニのメインストーリーにおいて1人だけ「出遅れ」たキャラクターであり、そして他3人を「導いた」キャラクターでもあります。
そういった意味で、今回のイベストでも1人悩み、そして3人が悩まなかったのは咲希がいたからという解釈は過去を感じさせて良いのではないでしょうか。

そして今回のイベストで明かされた真堂の過去の話もしましょうか。

もちろん、元のバンドは解散になった。そして――

真堂のバンドからギターボーカルが抜け、バンド自体が解散してしまったくだりは、過去イベ『Resonate with you』(2021/04/21~)でプロの夢を追うためにLeo/needを抜けるか迷っていた志歩を意識したものでしょう。
この回想は、「志歩を引き留めることができた咲希たちは真堂とは違う」という希望と、「志歩が抜けていたらLeo/needも志歩も上手く行かなかっただろう」という示唆でもあります。
『Resonate with you』はレオニメンバーだけでなくイオリがミオにプロ入りの覚悟を問う話でもありましたね。
『Resonate with you』を読み直していて思いましたが、この時点で既に一歌は自分の歌を届けたいという話をしていて穂波はバンドの柱になる覚悟を決めているのに対し、咲希は一貫して一緒にやりたいで2人に比べるとふわついてる感覚は少しありますね…。

真堂との会話で、咲希は自分の持つ「みんなと一緒にいたい」という気持ちと「音楽を届けたい」気持ちの両方を大切にすることに自信を持ちます。

そして、そんな皆さんの音楽を、私は好きだと思って声をかけさせてもらった

この会話で重要なのは、真堂がちゃんとLeo/needの演奏を聴いて「みんなと一緒にいたい」という気持ちと「音楽を届けたい」という気持ちの両方を感じ取れていたという部分ですよね。
つまり「みんなと一緒に居たいという気持ちが音楽として真堂に届いていた」わけで、ここにも2つの要素の同一化が読み取れ、そして「その想いが伝わっていた」という事実がここで咲希にも伝わり、自分たちの音楽が伝えたいもの、伝えられたものへの実感を得たのではないでしょうか。

さて、真堂との会話を経てプロになる覚悟を決めた咲希たちの会話です。

だから今は……プロになるのが楽しみなの

この「いままでできなかったことができる」、実はまさにプロになる覚悟について悩んでいた『Resonate with you』の咲希も発言していたセリフです。>

(しほちゃん、アタシがやりたいことがたくさんあるから、あんな風に言ったのかな……)

咲希の学生生活の根幹というか夢に近い「いままでできなかったこと」をを諦めてでも志歩とプロとして音楽をやろうとしていた咲希が、今プロとして志歩たちと「いままでできなかったこと」をやろうとしてるの、流石にどエモ要素すぎるでしょ…。どちらかではない、両方を手に入れてもいいんだよな…。


最後に、真堂の一人称です。過去のバンド時代に思いを馳せる真堂は「私」から「俺」に一人称が変わっていました。
そしてプロ入りを決めたレオニメンバーに対してまた一人称が「私」から「俺」に変わります。

俺が皆さんの世話係みたいなものになるんで、まあ、楽にしてください

これは単純に距離が縮まった、という意味だけでなく、Leo/needが目指す音楽の形である「みんなと一緒に音楽をやりたい」気持ちを「聞き手に拡張する」、つまり真堂もまたLeo/needの音楽が見せた一体感により「みんな」に含まれる1人のバンドメンバーとなったという見方もでき、そしてそれがまたバンドの夢を諦めた真堂にとってのLeo/needの始まりである「またみんなでバンドをやりたい」という願いと通ずるのではないでしょうかといった感じでどうでしょう。

(アタシ達らしい――Leo/needらしい音楽を、届けられるように!)

終わりに

いや~、あの超うさんくさかった真堂が一気にエモいキャラになってしまったのなかなか良かったですね。
記事書き始めたときにはそれほど意識してなかったんですが、読み直してたら思った以上に『Resonate with you』との対比が面白いイベントでしたね。
プロセカのイベントって過去イベとの対比がアツいな~ってのは前から思ってたんですけど、こう記事書くようになってから一応ちゃんと読みなおしとくか…って読む理由ができたのは良いことですね。
いやもう気軽に過去イベ読んでたらきりがないくらいのボリュームなのはわかってるんですが、みんなで読みなおしてあーだこーだ言いたいねみたいな気持ちになるぜ…。

そんな感じで!

プロセカ『交響する街の片隅で』感想・読解みたいなやつ

交響する街の片隅で感想書くぞ!!

雑感

いや~読解オタクが好きなタイプの話で嬉しい!
今回志歩バナーではありましたがストーリー的な主軸はどちらかというと杏だったんじゃないかな感はありますね。問題解決という点で…。
前回の『イミシブル・ディスコード』は心情の読解の面白さがありましたが今回のイベントは構成読解がめちゃんこ面白い…というか考えれば考えるほどキャラクターの対比対立構造の面白さが出てくるんですよね。プロセカのシナリオが持つ一番の面白さってこの複数キャラクターの立場・環境・心情の対比をひたすらに重ねるところだと思うんですけどその面白さが過去最高に出てたんじゃないかってくらいに出てましたね。

「追う者」「追われる者」の対比

というわけで早速対比構成の話をしていきましょう。
まず当然ですが作中でも触れられた杏と志歩、前回のビビバスキースト『Kick it up a notch』(2023/02/19~)で描かれた「急成長するこはねを見て、自分が並び立てるか不安になる杏」、

(…………こはねはすごいな)

そしてレオニのキーストとしては3つ前、前回の志歩バナー『Don't lose faith!』(2022/08/31~)で描かれた「全力で追いかけてくる仲間たちを信じ応え全力で演奏をする志歩」の対比です。

(みんなはどうだろう。楽しいと思ってくれてるかな。今日のステージ……)

志歩が杏の歌から「仲間のために歌う心」を感じ取り、仲間のために頑張る気持ちいいよね…って自分たちと重ねて杏に話をするのが今回のイベって感じですね。
志歩が杏の歌を聴いたときに、杏が抱えていた不安や焦りでなく「仲間と一緒に歌い続けたい」という想いに引っかかり、そこに価値を見出すのがなかなかにエモなんですよね。

さて、この対比ですが、志歩が実力的に「追われる者」、そしてレオニメンバーたちが志歩を「追う者」であることは異論の余地がなく、その話をするイベントではあるのですが、それに重ねられた杏に関しては単純にレオニメンバーのような「追う者」ではありません。杏に「追う者」「追われる者」双方の側面があるのがこの対比でまず面白いところです。

杏のポジションについて考えていきましょう。こはねから見たらまだまだ杏は憧れの存在のままですし、杏もまだこはねを導く存在である・ありたいという自負はあると思います。つまり杏はレオニのイベントストーリーと重ねたときに「追われる側」志歩の立場でもあるんですよね。そして「追う側」としての認識、杏はRISEのオープニングアクトでのこはね自体が自分を既に超えているという実感を得たというよりは、「こはねの成長性にこの先ついていけるかどうか」という点と、「こはねの歌に凪さんの幻想を見て、間接的にRAD WEEKEND、その遠さを感じた」という点の2つの側面で衝撃を受けたという印象があります。
この辺の杏の心情というか嫉妬心というかこはねに対する想いはさらに過去に描かれ、今回のイベントでも引用されました。かなり前のイベントになりますが『Bout For Beside You』(2021/10/11~)でのビビミク・彰人との会話ですね。

――こはねが伸びだしたせいで、いつかそうできない時が来るかもしれないと思った……ってことか?(彰人)

いいですね~、今対等に並び立とうという形ではなく、常に・未来でも相手を歌でリスペクトさせる立場でありたいというある種の傲慢!ここが関係性が先に合って歌があとについてきたレオニとはまた違う、杏こはのすげえところというかビビバスというユニットが描くストリートミュージックの絆の在り方なんですよね。今回のイベストで引用されなかったこの後の流れを簡単に要約すると、彰人曰く「杏とこはねの関係性はそのリスペクトから始まったのだからそれが消えることに不安になることは仕方なく、一生磨き続け対等であろうとするしかない」杏曰く「この不安・焦り・憧れの気持ちを大事に受け止め歌につなげていきたい、また揺れる時が来るかもしれないが」という感じでしょうか。今イベ前イベと何回揺れてんだという感じではありますけど…まあビビストの物語はひたすらに追いかけ続ける物語ですからね。言ってしまえば今回のイベントもこの『Bout For Beside You』と同じ話ですよね、あまり良くない気持ちも清濁併せ呑んで歌へと昇華させろという話なので。

で、ここまでが過去にも描かれた杏にとっての内省・自己認識の話なのですが、ここから別の視点が加わるのが今回のイベのキモになります。

……みんなの気持ちや演奏が、私に力をくれるから。

その追う側の気持ちがまた、自分だけでなく追われる側・あるいはチーム全体にとっても良いものであるという視点ですね。
初期のプロセカはとにかく「自己認識・自分の気持ちの在り方こそが大事」というテーマを音楽を通じて大事に描いてきたと思いますが、最近は少しづつ今までサブテーマであった「その自己認識が他人の気持ちを動かせる」ことを主題に置きはじめたのではないかと感じます。自己満足の音楽からプロとして・仲間に・他人に聞かせる音楽という芸術の在り方へのシフトなのかな、という印象がありますね。

ブランクと技術の対比について

さて今回のイベントでもう1つ大きな対比要素としてあるのがブランク、つまり活動をしてなかった期間の話だと思います。
仲間と別れて1人で音楽を続けていた志歩(と音楽から離れて過ごした仲間)、こはねに出会うまでずっと1人で歌い続けた杏(と素人だったこはね)、絵画教室から逃げた絵名(と続けていた友人)、ショーから離れていた寧々(と活動し続けていた青龍院櫻子および司)ですね。

ここに関してはまず志歩の視点で見た各キャラクターと各キャラクターの気持ちのギャップが面白さとしてあります。
彼女たちはこのイベントで自分の実力に思い悩んでいますが、志歩から見た杏は「一歌たちに歌を教えていた歌のプロフェッショナル」(『スクランブルファンフェスタ』(2021/10/01~))であり絵名は「穂波や子供たちに絵を教えていた絵のプロフェッショナル」(『好きを描いて♪レインボーキャンバス』(2022/09/09~) )であり寧々は「フェニックスステージの中でも頭抜けて上手い歌姫」(『響くトワイライトパレード』(2021/02/09~))です。特に寧々の歌は志歩がレオニで活動し続けることを決断させた直接的に重要な要素ですね。

それなのに、ここでショーをやる理由ってあるの?

彼女たちの焦りは、少なからずそのブランクに起因していたわけですが、志歩、他人から見たら「十分上手いのに」なんですよ。「教えることができる側」は「追われるべき側」ですからね。今回のイベストでの「絵名は完成度に納得がいっていなかったが、絵名の表現したいものは伝わっていた」で描かれたのは、第三者からの視点によって「自分の目指す場所・価値(届かない・追う側)」と「他人が認める自分の場所・価値(今の位置・他人からは上の存在・追われる側)」の両側面は独立して両立し得るという解釈です。その解釈が、「ブランクの期間であったり焦りの感情が今の自分の歌・表現を作り上げている」という自覚に繋がり、そして過去の肯定に繋がっていくわけですね。

ミク、私……。音楽をやっててよかったな

で、この4人の悩みに共通していたのが仲間と共にありたい、並び立つ存在でありたいといった気持ちで、並び泳ぐ金魚をよいと感じる気持ちなんですよね。
最近のイベントでの絵名の面倒見がいい姉キャラアピールもここにつなげるためだったと考えるとかなりロジカルな伏線の張り方だったかなと思います。

そしてその結実として描かれるのが、悩みの解決であると同時に追う者追われる者構図の破壊です。このイベントストーリーの中では杏を導く側だった志歩と、導かれる側だった杏という関係をぶち壊してお互いがお互いを引っ張り追いかけ寧々も加わっての上も下もない、あるいは上であり下である、追う側であり追われる側である、杏がこはねとの関係として永遠にそうあり続けたい理想としている、あるいは志歩がレオニメンバーとの将来に夢見ている、寧々が司や青龍院たちと並び立つ関係としてありたい形のメタファーとしての対等なセッション、交響曲なんですよね。

……あの、胸が痛くなる感じじゃない。すごく楽しそうで――こっちまで弾んでくるみたい)

かつて迷う志歩を導いた寧々の歌が今回は迷う寧々を導く歌として聞こえてくるのは良いですよね、ここにも追う側と追われる側の逆転あるいは共存があります。

この交響の中に存在した平等が描くものは、彼女たちが未来・将来に願う「対等な立場」のメタファーであると同時に、丁寧に描かれた「1人で歌う中で描かれた悩み・追う者追われる者の構図」から「複数人で歌う中に優劣はなく楽しさだけがある」、つまり追いつく追いつかないとか1人で歌ってるから悩むのであってちゃんと真剣にやってるなら・やってるからこそみんなで歌ったらそんなの関係なく楽しいぜという「未来」ではなく既に現在にある・現在にあった・過去からずっとあった純粋な仲間と歌う多人数音楽の楽しさ・対等さの再発見という構図でもあるのではないでしょうか。

この2人のあるいは3人もしくは4人(?)の出会いが「街」で聞こえてきた音楽に込められた想いから、というのもビビッドストリートらしく、そしてプロセカらしい音楽への信頼で良かったですね。
とそんな感じでどうでしょう。

おわりに

この記事書いていて改めて感じたのはこのイベントってキャラクターの心情として特に目新しいことは書いてはいなかったのかな、という点で、でもそれでも今まで全く絡んでいなかった過去とキャラクターたちをひたすら引用して接続して対比させたことでこんなにも面白いストーリーになるんだなという驚きですね。
私はこういう構成の整理をする記事が書きたくてプロセカ感想記事を書いている!

まあそんな真面目な話はおいといて志歩がずっと生暖かいツラしてんのめっちゃワロタとかイベページ曲のインストベースかっこよすぎとかそういう話もある!
おわりだよ~。