なんもわからん

さっき作った

プロセカ『On Your Feet』感想・読解みたいなやつ

『On Your Feet』感想読解書くぞ!

雑感

いや~良かったですね。
前回イベ、『Light up the Fire』の流れを汲んで実力の不足を自覚しつつも今までの全ての歩みを振り返り自分の力を再確認するという流れはビビバスが今までやってきたことの集大成といった感がありました。

ビビバス単体としての話ではありますが、モモジャンが直近で描いてきた「普通の学生か音楽(ライブ)か」だったりニーゴが描いてきた「親との対話・理解への期待」だったりといった要素が置かれていたのも対比的でしたね。
そう考えると他ユニットの要素もあるんでしょうかね。あえて探すのであればワンダショは「大河の想いと謙・ビビバスの共存できない夢」でレオニの要素はここ最近のテーマは「観客との一体感」あたりではあるんですがシンプルに「仲間との関係修復」あたりで見てもいいのかもしれません。ちょっと脱線しましたが読解やっていきましょうか。

ビビバスが描く「挫折」と「仲間」の存在

さて何から見ていきましょうか…正直今回『Light Up the Fire』の後日談的な意味合いが強いのがあって、大河と街の真意まわりの読解は『Light Up the Fire』の記事でやってしまったのと、今回のイベントかなり全部言葉で説明してくれているので改めて行間を読むべき部分があまりないんですよね…。
maisankawaii.hatenablog.com

とりあえず、今回のイベントの前半部分のメインは「折れてしまった人を再び立ち上がらせるのは難しい」という話が描かれていました。

…………一度敵わねえ、届かねえと思っちまったら、そう簡単に気持ちは立て直せねえ(彰人)

冬弥も彰人も、かつてピアノとサッカーというフィールドで大きな壁にぶつかり、そのままその道から去ってしまったという過去があります。
そんな2人がどうして折れずにいられたかというと、それはビビバスの仲間というチームあるいは相方の存在があったからですね。
しかし今回去ってしまった岡崎達也はともかく、遠野新と三田洸太郎の2人にはとりあえずそこで支えになってくれる・共に上を目指してくれる仲間がいないわけです。

彰人が遠野と出会い壁にぶつかる『STRAY BAD DOG』(2021/04/30~)では仲間に頼り共に成長していく大切さが描かれ、遠野の「あいつがここにいたら、俺も――」と仲間の不在に嘆く様子が見られました。

……すまねぇ……

一方、三田は大河の言葉を「身の丈に合わねえ夢は見るな」と解釈していましたが、今回のイベントでRAD WEEKENDの裏であったことを聞き、折れずに夢を目指すビビバスのメンバーの話を聞き「これ以上お前らの…」と返しています、この言いよどんだ部分は「これ以上お前らの夢の足手まといになりたくない」でしょうね。
であるならば、ビビバスがRAD WEEKENDに匹敵する実力を示すのはむしろ三田にとってはあまり効果がないどころか逆効果かもしれません。
この「真っすぐな夢に引け目を感じて決別を選んでしまう」は既にビビバスで描かれている話です。そう、メインストーリーで真っすぐ夢に向かう3人を見て自分にはその覚悟がないとして別れを選んだ青柳冬弥ですね。冬弥は彰人の隣に立ちたいという想いで改めて2人で夢を目指すことになりましたが、三田は『THE POWER OF UNITY』(2022/05/20~)で語った「本気でやりてえ」という自分の想いに改めて向き合い、ビビバスという仲間と共に夢を目指すことができるのかは注目のところです。

新と颯真の夢という課題については前回記事で書いたところなので深掘りはしませんが、今回颯真側の「これでいいのかもしれない」という「諦め」が描かれたのは、新と颯真だけなく歌を次の世代、残された側に託そうという凪の夢とも重なるもので、その終わりをイメージさせるものではありました。
凪が夢を託すのがボカロ文化っぽいみたいな話も前の記事でしましたが、「この曲はもう……あいつに、歌ってもらえないんだな」もめちゃくちゃボカロを思わせて良かったですね…。

さて仲間の存在の話に戻りましょう。
今回こはねは遠野たちとの関係を「チーム」として、それを自分の歌でつなぎとめられなかったことに悔しさを感じていました。
この「自分の歌が持つ力とその自覚」というシンガーとしてのプライドの話はミクさんが全部解説してしまいましたが、そもそもこはねに関しては実力のなかったメインストーリーの頃から自分の夢、RAD WEEKENDを超えることを疑わない強さは持っていたんですよね。
つまり「実力がついて自信がついてきた」の話ではなく「揺るがない自信にようやく実力が追い付いてきたことを自覚してさらにその自信を他人に伝えられること」みたいな話になるわけで、この辺はやっぱり小豆沢こはねというキャラ造形の普通じゃなさで面白さなんですよね。
そしてそれを自覚できたのは「私の想い・夢」で歌っていた過去から脱却して相棒・仲間・チーム・街・すべての人々への感謝という広がりの中でという話につながっていくわけです。

この辺は2.5周年からこっち全ユニットで描かれている「プロとしての音楽」の話なのでしょうね。
音楽は自分のために歌うなら楽しいだけでよくて、そこにいろいろな責任や悔しさが重なるのは「誰かとやる音楽・誰かのための音楽」だからで、なぜそれが素晴らしいのかという話にRAD WEEKENDを超えるキモがあるのかもしれませんね。

RAD WEEKENDを超えて、その先に行きます!

白石謙の「覚悟」について

さて謙さんの話していきましょうか。
今回大河に会うために「学校をサボる」話がありましたが、これは直近のニーゴのイベストとの対比は意識しているでしょうね。

話したあと、大変かもだけど……

音楽活動をするにあたりまふゆとまふゆ母は衝突し、理解を得られなかったという話がありましたが、続くモモジャンではみのりが単位制に転科する上で両親と対話し理解を得ることができ、レオニでも一歌が両親にプロになる上で活動の理解を得るというくだりがありました。
そして今回のビビバスでも両親とちゃんと話して理解を得ようねという話があったわけですが、ここで謙は「理解のある両親」の枠からさらに進み杏の父としてではなく1人のミュージシャンとして、凪の想いを継ぐものとしてビビバスの練習に手を貸すことを選択します。
さらに片手間でという話ではなく、店を畳んでです。ここまでくると「理解がある両親」とかいうレベルの話ではないんですよね。謙の夢でもあるというのはあっても子供の夢のために「親としての責務を放棄している」まであるんですよ。

オレはここで、オレが教えられるすべてを、お前達に叩き込む

ここまでの他のユニットで描かれてきた理解のある両親たちもあくまで子供の活動を応援するかしないかという姿を見せてまふゆ母とは違うなという印象を植え付けてきたわけですが、逆にここまで子供の夢に人生をかけるのははっきり言ってまふゆ母と同様に「普通ではない」んですよね。
ですが、ビビッドストリートという街は、そういう音楽のために全てをかける街で、ビビバスは今そういう全てを巻き込んでいく話をやろうとしている。そういう異常な熱を描くユニットなんですよね、ビビバスは…。と考えていくと他イベで両親との対話が描かれたのがこの謙の覚悟のデカさを際立たせてていいな~と思います。

なんならRAD WEEKENDのあの日からずっと謙が背負った熱は続いているわけで、謙の歌にできること、親としてではない「シンガーとしてのプライド」がここにもあるなら謙自身がやるしかねえだろという話なんですよね。立ち上がれ、自分の足で。『On Your Feet』、そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

このプロセカイベント記事も前回こはねバナーから始まったのでとりあえずだいたい1周といった形でなんだかんだ結構続いてるな~感がありますね。
まあ書いてる分には楽しいのでこれからもぼちぼち続けていけたらと思います。

おわりだよ~

プロセカ『ドタバタ cafe ●REC』感想・読解みたいなやつ

『ドタバタ cafe ●REC』感想読解書くぞ!

雑感

比較的真面目な話が続いてきた中で久々にまるまるコメディ調で明るい話だ!
混合イベではありますが全員登場していますしかなりモモジャンメインの印象の強いストーリーでしたね。

かわいいコミカルだけな話のように見えて芯には「過去の肯定」もっというなら「過去の経験・過去からの継続の肯定・反転」が根幹にありなかなかきれいにまとまっていたと思います。NEXT演出イベ後のモモジャンなのでもう進級後の話なのかな?と思いましたが混合で別にモモジャンイベではないのでまだ進級前なんでしょうね。
どちらにせよ、各キャラのここ最近の成長と時間の経過をしっかりふまえた話ではあり、一区切り後の始動の話という感じを受けましたね。

というわけで見ていきましょう。

暁山瑞希という表現者について

今回のイベント、先にも書いたようにストーリー的に主役はモモジャンの4人ですし、トップのイラストは愛莉とみのりで報酬星3イラストも愛莉とみのりではあるのですが、個人的にはストーリーの主軸としてキャラの掘り下げが描かれたのは主に愛莉と瑞希の2人だったかなと思います。

というわけでまずは瑞希の話をしていきましょう。
さて今回人手が足りないということで瑞希をバイトに誘ったのは愛莉でした。愛莉と瑞希の関係は『お悩み聞かせて!わくわくピクニック』(2021/05/10~)から始まっています。当時は他人だった2人ですが、時を経ても気安い友人としての関係が構築されていることが今回再確認できたのは良かったですね。
愛莉と瑞希として直接の関係はないのですが、直近の愛莉バナー『Re-tie Friendship』(2023/04/30~)から瑞希バナー『ボク達の生存逃走』(2023/04/30~)で過去の友人と関係を再構築できた愛莉と過去の友人との関係を再構築しないことを選んだ瑞希という対比が描かれたのも記憶に新しいです。書いていて気が付きましたがその前のバナーイベントでもこの2人のイベ連続してたんですね、こちらも雫愛莉・瑞希絵名の2人の過去関係を振り返るという話が対比的でちょっと面白いです。
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話がそれましたが、それだけ瑞希にとって「友人」という関係は気安いものではなかったんですよね。過去絵名やニーゴとの距離感に悩む姿は印象的で、しかし表向き瑞希は社交的なキャラクターとしても描かれていて、好きなものやカワイイものの話では常に盛り上がっている姿が見られました。『隣に立つ、優しいあなたへ』(2023/05/31~)でドレスの話で盛り上がっていたのも記憶に新しいです。

これは瑞希の「自分のパーソナルに踏み込まれたくない」という性格が大きいと思っていて、瑞希の対人関係において「意味なく他人といること」は悩ましいものですが、反面「何らかの共通の目的のために他人といること」はそれを意識する必要がなく居心地がいいという話だと思います。人ではなくモノ、内ではなく外にフォーカスする人間関係ですね、ちょっとわかりづらくはありますが…。

制服着れるっていうのもそうなんだけど……実はちょうどさっき欲しいものが出来て、お金に困ってたんだよね~

このへんの瑞希の性格は対人関係に対して後ろ向きな部分というよりは、人の内面を見ずに「好きなものが好き」だけで繋がることができるオタク的な対人関係がうまく構築できているという前向きな見方をしてもいいと思っていて、つまりはそれを築いたのが瑞希という人間の内面ではなく瑞希という人間の”外側”を構築するファッションであるとかリボンであったり、今回のイベで描かれた「飾り付け」という要素に繋がってくるんですよね。

話を戻して、今回のイベントは「遊び」ではなくバイト、仕事という目的がある話であるからこそ瑞希も気軽に誘いに乗り、楽しくやれたという部分はあったと思います。
まあそもそも『お悩み聞かせて!わくわくピクニック』でも描かれたように瑞希にとっての「友人を助けたい」はごちゃごちゃした悩みよりも優先できることでもありますからね。

このプロとしての要素を補強するのが、愛莉のプロ意識、そして咲希のバイトの先輩としての立場、みのりの元バイトとしての経験などですね。
メタ的な話として、ここ最近のプロセカのイベントとして、モモジャンは「普通の生活を捨ててプロとしての生活になること」であったりレオニの「アマチュアではなくプロミュージシャンとして活動すること」というテーマが描かれていて、ビビバスもワンダショもストーリーのテーマとして「客に想い・表現を伝える」というプロ活動をしている中でニーゴだけが「学生が音楽活動をすることの悩み」みたいなことを描いていたわけなんですよね。

だからこそ、バイトとして忙しく仕上げに手を抜いてしまった瑞希に対して、普段はふわふわしているキャラクターである咲希が既に「プロ」である先輩の立場としてアドバイスするという構図は良かったですね。

それが、この『carino/carina』の方針なのです!

そして瑞希もその姿を自分のクリエイターとしての心構えにつなげたのも良かったです。

誰かに届けたいものを作る時は、全力でやるべきだし……そうしないと作り手の想いも伝わらないよね

瑞希はあくまではかわいい制服を着るため・お金を稼ぐためという学生としては普通の目的でバイトをしていたわけですが、ここで瑞希のクリエイター・表現者としての意識がバイトという立場の中である意味でアマチュア視点ではない「プロ」の意識と接続したのがこのイベのキモだと思います。
「全力でやる」「想いを伝える」どちらも瑞希の過去ストーリーを考えるとそれから逃げ続けてきて、うまくできなかった行為ではあって、しかしそれがこのイベントの全力で向き合ったパフェという「作品」が単なる自己満足ではなく客にきちんと評価されるという「作品による人と人との繋がり」の描写によって、対人関係にしろ進路にしろ瑞希のクリエイターとしての明るい未来を感じさせてくれるものがありました。ニーゴのストーリー、今後まふゆだけじゃなく他のみんなの進路の話もやってく感じなのかもしれませんね。

なんにせよ、瑞希という表現者にとって、「作品」は「自己表現」である必要はなく、ただ奏の作った音楽だったり店長のパフェへのこだわりだったり、そういう「他人の想いを飾り付けて伝える」ことこそが表現者としての中心にあるのではないかと改めて感じさせてくれるエピソードではありましたね。

そういった意味では、「衣装による変身で別人のようになれる」雫も自分の内面を出さない表現者としての性質が瑞希と近いのかもしれません。今回雫が男装という変身をみせたのももしかすると瑞希との対比としてのエピソードなのかもしれませんね。性別の超越でもありますし。

かっこいい~~!!(お客さん達)

それはそれとして雫が食レポでパフェのこだわりに気が付いていたのは「外面ではなく内面も見て欲しい」の要素ではありますね。

桃井愛莉というアイドルが得てきたもの

続けて愛莉の話をしていきましょう。
今回のイベントでは愛莉のバラエティタレントとしての経験が活かされる形となりました。
愛莉のバラエティタレント時代の想いを描いたイベント『ハッピー・ラブリー・エブリデイ!』(2021/08/10~)では、タレント業がメインになりアイドル業ができなくなってしまった愛莉がモモジャンという新たな居場所を得てアイドルとしての姿をタレントとしての愛莉のファンに見せられるという姿が描かれました。

今回のイベントで愛莉がタレント時代の経験をみせるという『ハッピー・ラブリー・エブリデイ!』とは逆の形のイベントでしたね。『青空の先、輝きをおいかけて』(2022/08/10~)でも愛莉は生配信において今回のイベントと同じように企画屋としての顔やハッピーエブリデイの技を見せていました。

今日は、ほっぺたが落ちちゃいそうなくらいおいしかったから、まさにハッピーペロリって感じよ!

そういった意味ではバラエティタレントの才能を活かして番組をフォローする姿にフォーカスしたという部分にはあまり目新しさはなかったかもしれません。

それをふまえて今回のイベントでの愛莉のテーマは、「アイドルとして人と人をつないできたこと」だったのかなと思います。
今回のイベント冒頭では、テレビの仕事がもらえたのは前回の仕事の評判が良かったからだという話がされています。

そうね。だから業界的知名度というよりは、人とのつながりで案件をもらっている感じよ

maisankawaii.hatenablog.com
前愛莉バナーイベ、『Re-tie Friendship』の記事で「他人の要求を推測しそれに応える」能力の高さこそが桃井愛莉のアイドル性だという話をしました。
今回のイベントでも愛莉の番組の進行と店の進行をどちらも気にしてフォローにまわろうとする姿からそれは伺え、その成果としてラストの「番組時間の延長」という成果につながったのかと思います。

この他人に何かを与えるだけでなく、過去が人と人とのつながりとして自分に返ってくるという部分は今回のイベントのキモだったのかなと思います。
愛莉に限らず、過去悩んでいる瑞希を助けようとした結果今回助けてくれたことであったり、バイトをしていたみのりの経験が助けになることであったり、瑞希のデコレーションに対するこだわりがパフェに活かされたことであったり、店長に打ち上げに呼ばれたり、一緒に撮影したライザー☆風神がカフェとモモジャンの宣伝をしてくれたりといった部分ですね。ファンとのつながりを描いき巻き込んできたモモジャンだからこそ、そのつながりの輪がさらに一段階外に広がったなという印象はありましたね。

そして研究生時代からのファンとの再会も良かったですね。
過去の愛莉を苦しめていたのは「自分はアイドルとして希望を届けられていたのか」という不安でしたが、タレント時代を経てもきちんとアイドルとしての桃井愛莉をずっと見てくれた人がいたというのは愛莉にとってとても嬉しいことだったでしょう。作中で今まで出てきた愛莉のファンはほぼタレント時代の愛莉のファンでしたからね。『ハッピー・ラブリー・エブリデイ!』の過去回想では自分の握手会に来てくれたファンがQTの他メンバーと盛り上がるのを見ることしかできなかった愛莉でしたが、今のモモジャンの桃井愛莉なら不安なく自信をもって「推し変しないで」「また会いましょう」が言えるの、本当にいい話だったと思います。

――今日あなたと話せたこと、忘れないわ。また次のイベントで会いましょうね

そしてそれをなしえたのは桃井愛莉というアイドルがアイドルという仕事、バラエティタレントという仕事に不安を抱えていた間もずっと全力で向き合ってきたからに他ならないでしょう。
咲希と瑞希の会話であった手を抜かずに全力で向き合うというプロ意識の話ですね。
愛莉にとってバラエティタレント時代も無駄ではなかったという話は何度も描かれてはいますが、改めてそれが自己満足だけではなく次の仕事に繋がる・番組の尺がもらえるという「成果」の話になったの、「プロ」としての話で良かったと思います。

『ドタバタ cafe ●REC』、そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

いや~読んでる間めちゃくちゃ楽しい話ではあったんですがトラブルが続く様に「台本から外れた動きされたくねえ~」という労働者としての私のスタンスからのお気持ちがちょいちょい出てしまったの良くなかったですね…。モモジャンのやることは全て正しいからオッケーです!

おわりだよ~

『つなぐ、星の歌』感想・読解みたいなやつ

『つなぐ、星の歌』感想読解書くぞ!

雑感

今回レオニのNEXT演出イベということで一応の一区切りだったわけですが、こういう結実だったか~という感じですね。
前イベが最後までどう転ぶか読めない、「伝わらない・届かない」をテーマにした難解なストーリーだった中で、「音楽は伝えられる」を前提にして「音楽が繋いできた絆」という結論を最初に出してひたすら繰り返すシンプルな構成はやり直すことと相互理解を描き続けてきたレオニらしいストーリーだったと思います。客席との繋がりというテーマとしては似たような話を前回のキースト『Get over it.』のワンマンで片鱗見せてますしね。
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以前書いた『Get over it.』の記事読み直してみたら今回のイベで描かれた要素「音楽が繋ぐ絆」、「客席との繋がり」と「幼馴染との繋がり」の連結から「またみんなでやりたい」「流星群への帰結」に繋ぐのまでかなりいい読解できていたと思います(自画自賛)。ちゃんと読めすぎてここに関しては今回書くことがないまである…。

ただ今回のイベはそれだけではありません、内に巻き込む音楽から外に拡散する音楽へ、もっとでけえスケールの話もしています。というわけで読んでいきましょう。

続・Leo/needの音楽について

今回のイベントの主題は「原点回帰」と「レオニの双方向性と想いの連鎖」あたりでしょうか。
というわけで見ていきましょう。

このイベントはレオニの面々がプロになる場面から始まりますが、「プロになったLeo/needと」いう”変化”を踏まえていざ新しいことに挑戦するのではなく、過去の回想とやり直しという「プロになる前のLeo/need」でもできた行為を反芻しもう一度繰り返すのが面白く、レオニらしさといったところでしょう。

全部、大切な思い出だか ら。またみんなで、同じように大切な思い出が作れたら嬉しいな(穂波)

特にプロになって何をすべきかという話をしている中でふと出てきた「昔のように星を見に行く」という目的は、一切バンドとは関係ないわけです。
これには少しレオニの成り立ちを振り返る必要があるでしょう。

そもそもメインストーリーで4人がバンドを組んだ理由はなんでしょうか。
離れ離れになった4人がまた昔のような関係に戻りたいという想いの中で産まれたのが教室のセカイで、その中にあったのがバンドだったはずです。
つまりは一緒にいたいという想いの方がメインであって、バンドはその中で仲直りするための手段だったわけですね。

『Resonate with you』(2021/04/21~)ではレオニがプロになる理由と覚悟が描かれました。
志歩の夢、「プロになって、誰かの心に響く演奏がしたい」に全員が巻き込まれた形ですね。
4人共通の目的としては「ずっと全員でバンドを続けたい」が第一にあって、志歩の夢にあわせてプロになること・プロになる覚悟をすることはそのための手段であるという話です。

だからこそ、プロになっていざやることが星を見ること、つまり「昔のような関係」であることはレオニの在り方として正しいわけで、そこに音楽やバンドが絡む必要はないわけですね、レオニにとっての音楽をやること、プロになることは一緒にいるための手段であったので…。

さてそれを踏まえて音楽活動を通じて繋がってきた人に感謝を伝えたいという話が出てくるわけですが、「感謝を伝えたい」の話が出た段階でも特に音楽の話はレオニの4人からはすぐに出てこないんですよね。音楽という手段を提案したのはKAITOです。

た……たしかに~! バンドのことのお礼をするなら、やっぱり音楽で返すのが一番だよね!(咲希)

この辺もこのレオニの在り方を意識すると、「より良い音楽を作ることが第一でその中で人とつながってきた」という話ではなく、そもそも「人と人を繋ぐ・他人に想いを伝えることが目的としてあり、その手段・過程として音楽があった」という読み方がレオニの在り方としては正しいわけです。

これって結構すごいというか異常なことだと思うんですよね。ストーリー上の都合で気付かせなかっただけといわれたらそうかもしれないのですが、これだけ音楽をテーマにしたストーリーを何年もやってきて、プロになるという話もしてプロになって、それでもなお音楽が1つの手段でしかないしそれが第一の選択肢として出てこない。歌にはこんなに力があったんだ…!とかいまさら気がついてる場合じゃないんですよ。3年目に気がつく話じゃないすぎる。

歌を……音楽をやってたから、こうやって仲良くなれたんだなって

まあそんな当たり前の話も見えないくらい周りを見ずにがむしゃらに4人であるために、想いを伝えるために真っすぐに音楽活動を続けてきて、その結果として今があるんですよねレオニは…みたいな感じにしておきましょうか。

一歌とレオニが描く「永遠」について

レオニの原点についてはこのへんにして、続けてレオニ…というか主に一歌の「双方向性」をみていきます。
今回のイベントでのライブでミクと共に歌った一歌の結論、ミクの歌を聴いた自分が歌うようになり、そして歌を聴いた誰かがその歌を誰かにつなげていくという話ですね。

昔、私がミクに感動をもらって……そして今、みんなに歌を届けているように……!

今回のイベントの一番のポイントはここでしょうね。原点回帰と想いの伝播、感動の連鎖です。
この与えられたものを与えることにもなっているという連鎖は何も歌に限った話ではなく、他の話でもそうです。

吉崎兄妹との会話、ライブへの感謝と一歌の感謝の連鎖。寧々との会話、夢を応援されることが寧々の夢を応援することにつながっているという連鎖。
音楽の世界にいざなってくれたミクを今度は自分たちのライブに呼べるという連鎖。
そしてこれは今回のイベントだけではありません。レオニは、一歌はずっとこういう話をしてきました。過去イベまで振り返って志歩の「他人に届く演奏をしたい」という夢に同調した一歌が今同じ夢を持って歌っていること。咲希の曲を受けて作曲を始めた姿。一歌はずっと与えられたものを吸収し、そして周りに返そうとしてきました。

こうして考えるとメインストーリーで「ずっと一緒に」という想いを最初に抱いたのは咲希で、その想いを受けたレオニが・一歌がその想いを伝播してきたことが今の強固な絆の原点で、その想いが元になってレオニの人と人を繋ぐ音楽の礎となっているのかもしれませんね。

この想いの伝播は、単に同じ共感を広げ返すという話だけでなく、「あの時の気持ちをもう一度」という繰り返しの概念でもあります。
辛かった時の気持ちをまた歌うこと。プロになる決意をした場所でプロになった今また歌うこと。ミクとの出会いをまた思い出すこと。そしてまた星を見て「ずっと一緒にいたい」と同じ気持ちを願うこと。
その気持ちは過去と今で同じではないのでしょうが、かつてバラバラになった時のように気持ちが離れることのないように、忘れないように大事に想いを永遠に繰り返し歌いバンドとしてつなげていくのが一歌とレオニの音楽の在り方なんでしょうね、つなぐ、星の歌。そんな感じでどうでしょうか。

(私も、Leo/needのみんなをつなげていきたい)

おわりに

ストーリーも構造もシンプルではありますが、とにかく今までの全てを拾い上げる総決算みたいな話だったのでちょっとごちゃついた記事になっちゃいましたね。
なんにせよレオニの「変わらない想い」「ずっと一緒に」「つなげていく」みたいな要素満載で面白い話だったと思います。私自身がミクになることだ…。


おわりだよ~。

プロセカ『仮面の私にさよならを』感想・読解みたいなやつ

『仮面の私にさよならを』感想読解書くぞ!

ここまでの流れ

メインストーリーからずっと課題となっていたわけですが、いよいよまふゆとまふゆ母との直接対決で話が大きく動きましたね…。

ここ最近のキーストーリーはほぼまふゆが中心になってストーリーを回していました。
メインストーリーで封印した看護師になりたいという夢を抑えこみ感情を殺してきたまふゆは、『この祭りに夕闇色も』で自分のやりたいことを再認識し、『願いは、いつか朝をこえて』で外の家庭を見て反論してもいいことを知り、『イミシブル・ディスコード』で母親に意見をしようとして上手く行かず、『ボク達の生存逃走』で追い詰められても逃げていいということを教えられました。

今回のイベント『仮面の私にさよならを』はこの流れを汲んでいよいよ『イミシブル・ディスコード』のリベンジで改めて母親と対峙するがうまくいかず決別してしまうといった形のストーリーでした。というわけでまだ続くみたいですね…。

以前書いた『イミシブル・ディスコード』の記事では、奏(とプロセカをプレイしているプレイヤー)から見るまふゆと、まふゆ母から見るまふゆの乖離、そしてそれによるすれ違いを読解しました。
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この読解の要点だけまとめると
①まふゆは自分が音楽をしたいという気持ちを正しくまふゆ母に伝えていないし、悩んでいる様子もまふゆ母に見せていない
②奏は①を知らずに「音楽をしたいと伝えたが母親に否定された」という言葉を額面通りに受け取り、先入観を持ってまふゆ母に対峙した
③まふゆ母は②でまふゆの気持ちを代弁する奏の話を聞いたが、それはまふゆ母が知るまふゆの「音楽より勉強を優先したい」という言葉や気持ち、医者になりたいという夢と異なっていたため、奏はまふゆの想いを理解していない・無視して自分の気持ちを押し付けているものとして解釈した
④奏は③の様子を見て、奏の知るまふゆの状態や気持ちと異なっていたため、まふゆ母はまふゆの想いを理解していない・無視して自分の気持ちを押し付けているものとして解釈した
⑤2人は③④を経て、相手はまふゆの心を理解していない、相互理解が不可能として決別した

この読解自体は大きく外してはいないでしょう。
この内容を踏まえたうえで、今回のイベントを見ていきましょう。

まふゆ母はなぜまふゆを信じられなかったのか

というわけで今回のイベントで注目したい場所はここ、「まふゆ母はなぜまふゆの言葉を信じられなかったのか」でしょう。
この親子の対話自体はずっとやってみるべきこととして過去のイベストで描かれており、ニゴカイトも絵名もまふゆにまふゆ母に正面から対話するようにアドバイスしています。これは「ちゃんと自分の意思表示をするべき」だけでなく、「話せばわかってもらえる(かもしれない)」という意図が当然あるでしょう。これは『イミシブル・ディスコード』の記事でも書いたように「まふゆが母親と正面から向き合ってこなかったから」という前提があるからです。

まふゆ母がまふゆを信じられなかった理由を「子供の気持ちを無視して自分の気持ちを押し付ける理解のない親だから」と解釈してしまうのは簡単ですし、実際まふゆ母はストーリー上の悪役・敵役としてそういった描かれ方をしています。今回のイベントストーリーでいうことを聞かないまふゆにヒステリーを起こす姿は擁護のしようがなく、ステレオタイプ毒親の姿といった印象でした。
ですが、個人的には『イミシブル・ディスコード』の読解のように、まふゆ母の視点・情報でストーリーを見ていくと、なぜまふゆ母がこのような行動をしたかにはもう少し複雑な理由があった上でシナリオが作られているのではと感じました。

これは以前も書きましたが、まふゆ母の言動がまふゆを苦しめているという結果がある以上、どういう意図があったとしても「正しい親」の姿にはなりえないでしょう。ですが彼女が何を考えて行動したかという部分はこのまふゆとまふゆ母を取り巻くストーリーの面白いところだと思いますので、改めて向き合ってみるのも読み方の1つかと思います。

前置きが長くなりましたが、結論から言うと、まふゆ母がまふゆの言葉を信じることができなかったのは、まふゆが自分自身の気持ちで話していないという認識を持ってまふゆの言葉を聞いていたからでしょう。これにはまふゆがついた嘘が関係しています。

まふゆがついた「嘘」について振り返ってみましょう。
まふゆ母がまふゆの嘘・違和感に気が付いたのは、シンセが捨てられていなかったとき、深夜に活動しているのを誤魔化したとき、そして今回のイベントでの成績が下がったことのごまかし、予備校のサボりなどです。
そしてこれは良いにしろ悪いにしろ、音楽活動、ニーゴとしての活動、奏と付き合う上で必要だった嘘とまふゆ母は認識していますし、実際に大筋でそれは外れていません。

そんなわけないわ。だって少し前まではこんなこと、一度もなかったじゃない――

実際にはまふゆを苦しめていたのはまふゆ母の重圧なわけですが、まふゆ母にはそんな認識は微塵もないので当然まふゆが勉強をサボりそれを誤魔化すために嘘をつくようになったのはニーゴでの活動が始まってから、音楽活動という「遊び」を始めてからという「悪い友人からの影響」からであると認識しています。

これはまふゆが勉強を苦にしない・母親の言うことを全て聞いてくれる・嘘をつかない「いい子」であったという姿を母親に見せ続けてきたという前提をもとにしており、「いい子」のまふゆこそがまふゆ母にとっての子供の頃からずっと見てきた真実のまふゆであり、自分から勉強より遊びを優先したい・音楽が勉強よりも大事と言うような子では絶対になかったからです。
であるからこそ、まふゆの言葉はいい子である「まふゆ自身の言葉」ではなく嘘をつく悪い子、「宵崎奏に影響されたまふゆの言葉」としてしか響かないわけで、そしてまふゆ母から見た宵崎奏は勉強の重要性を認識していない・まふゆの夢を全く理解していない・そしてまふゆに強引に音楽活動をやらせている人間です。

だからこそ、まふゆが成績を下げ、嘘をつくようになり、音楽活動という遊びを続けたいと言い、医者も目指したくないと言い始めた、これはまふゆではなく奏の言葉だという認識を持つのは無理はないです。

無理にお友達を庇わなくていいの

いやそんなわけねえじゃん自分の娘の言葉だぞ常識で考えろと言いたいところですが、ここで朝比奈まふゆの性格、悪い言葉を使うならば「異常性」を改めて考えていきましょう。朝比奈まふゆは残念ながら常識的な子育てが通用する普通の女の子ではありませんでしたという話をする必要があるでしょう。

朝比奈まふゆの「共感性」とまふゆ母の「過干渉」

まふゆの持つ異常な性質、それは高すぎる共感力であり、かつそれは他人の期待に応えるという行動をも伴っているということです。
例を挙げれば「父や母の期待に応えようとすること」であり「クラスや先生や部活の仕事を絶対に断らないこと」などですね。まふゆの悩み自体には気が付けなかったまふゆ母ですが、このまふゆの性質・性格が度を超していること自体はある程度把握していたと考えられます。

『灯のミラージュ』(2021/09/21~)では、学校で仕事を背負いすぎるまふゆに釘をさすようなセリフが見られました。

……うん。わかった。負担になりそうだったら相談してみるね(まふゆ)

ここでのまふゆの返答「負担になりそうだったら相談してみる」は嫌だという自分の意志も自分から断る気もないが母親の心配には配慮しているまふゆの性質が色濃く出ていて面白いセリフです。
『灯のミラージュ』では実際様々な人に頼られ過ぎて体調を悪化させてしまったまふゆですが、まふゆがこのようなあらゆる他人の期待に応える「いい子」であろうとするのは幼少期の遊園地でのトラウマからであり、まふゆをずっと見てきたまふゆ母もまふゆが「自分から嫌といえない」ような性格なのはある程度わかっていたでしょう。まふゆは優しすぎるから…。「嫌なら嫌といえ」、絵名が何度もまふゆを心配して言ったセリフでもあります。

何の話をしているかというと、つまりは「まふゆに『音楽活動を一緒にしてほしい』と頼んだ友人がいた場合まふゆは無理をしてでもその期待に応えようとする」ということがまふゆ母には容易に想像できるんですよ。実際にはまふゆの音楽活動は自発的なものであって、その読みは誤解ではあるのですが、まふゆ母はその点を正確に把握できていないでしょう。
そんな「嫌といえないまふゆ」を守るためにはまふゆ母はある程度友人関係に自分が干渉する必要がある、という自覚を持っており、これがまふゆ母の過剰な干渉を生んだ理由の1つではあるでしょう。実際まふゆ母が動かなかったらまふゆが苦しまなかったにしても勉強サボって音楽やってたのは事実ですしね。

また、まふゆの他人の気持ちを感じすぎる共感性の高さは自我の薄さにもつながっています。この自我の薄さが理由でまふゆはまふゆ母の「いい子であれ」というある種の洗脳をすんなり受け入れてしまったわけですが、逆に考えるとこのまふゆの感じやすさをまふゆ母が自覚しているならば、まふゆ母は絶対に「正しい選択」を娘に与えなければいけないというプレッシャーをもってまふゆに接しているわけで、それが医者の道であったりこうあるべきだという圧のかけ方だと考えると、案外まふゆ母はなるべくしてこうなるしかなかったのかもしれませんね。「子供の自主性を重んじろ」みたいな話ではあるんですけどまふゆの自主性は客観的に見てあまりにも普通の子供に比べて危うすぎる。

「お母さんがどう思うか」「お母さんを悲しませたくない」はまふゆのモノローグで何度も出てくる共感性の高さと行動原理を示していますが、まふゆ母もまふゆがやるべきことを考え、まふゆの幸せのためにそれを押し付ける必要を感じていたと考えると、なんだかんだ似た性質を持つ親子ではあるんですよね…まあ優しさという言葉でくくるにはちょっと行き過ぎてしまいましたが…。

しかしまふゆはここにきて変わろうとしていました。自分の意志を表に出して、自分のやりたい道を母親の決めた道を否定してでも伝えようとしている。

音楽をやめるのも、奏達と一緒にいられなくなるのも――

しかしまふゆ母はまだその変化を認識できず、受け入れることができていない。自分を無視して嘘をついて誤魔化そうとした言葉も記憶に新しい。まふゆ母の中には過去の主体性の薄いまふゆしかないから「他人に影響を受けて誤った道を選ばされている」として奏を否定し自分の選ぶ道の正しさを押し付けることしかできない。

お母さんなのよ!!

このセリフもまふゆが感じたような「子供の夢も想いも無視して自分の思い通りにできると思っている母親」として読むと普通に最悪ですが、「他人の言うことを何でも聞いてしまう子供を正しい道に引き戻そうとしている母親」として読むと多少はマシな印象になりませんか?そうでもないかな…まあどちらにせよまふゆにとっては普通に最悪ですからね…。まふゆもいつまでも子供のままではないんですよね。

とりあえずまふゆ母の話はこんなところでしょうか。
それはそれとして自分が責められて限界の状態でも最後まで母親を心配するまふゆはめちゃくちゃ良かったですね、異常で、でも優しくて…。

(お母さんを、置いて――? そんなの……私……でも……っ)

まふゆの共感性の高さと期待に応えたいと思う気持ちの根幹にあるもの、やっぱり「すべての人を・患者を救いたい」なんですよね。看護士という夢を目指す上でこれ以上の適正はないですし、ニーゴの、奏の「たくさんの人を救いたい」音楽にも連なっている。

それなのに、私は……っ

確かに自分の気持ちを伝えることは大事ですし、まふゆが自分の意見をだすようになったのは良い成長ですし、嫌なことは嫌だといい、母親を否定することは必要なことだったのでしょう。
それでもまふゆの中心にずっとあった「母親の期待に応えたい」「応えたかった」という想いだって嘘じゃなかったはずで、それを否定できずに痛みとして抱え続けるまふゆの姿はあまりにも美しく高潔で、親子の関係が決別ではなくなんかうまいこといってくんねえかなあと思わせるものがありました。

そんなこんなでまふゆもまふゆ母も変わっていく必要はあるのでしょうね。『仮面の私にさよならを』、そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

ほぼほぼまふゆ母の話だけして終わってしまった!このまま世界一のまふゆ母ファンサイトを目指します(?)。

『イミシブル・ディスコード』のまふゆのごまかしっぷりを見てちゃんとまふゆとまふゆ母は話し合う必要があるし話し合ったら上手く行くんじゃないかみたいなことを考えていましたが、いざやってみたら全然ダメでしたという感じですね。誰も悪くないと言えるような内容ではないですが…普通にまふゆ母が誤解してるにしても言い過ぎだよ~。

まあ今回のまふゆはよく頑張りましたよ。
まふゆの抱えるストレスはもう身体に影響出ていて治療が必要なレベルですししばらくはゆっくり休んでほしいです。

おわりだよ~

プロセカ『一期一会な百鬼夜行!?』感想・読解みたいなやつ

『一期一会な百鬼夜行!?』感想読解書くぞ!

雑感

このイベント、類単体にフォーカスして読む上では新鮮味があるのですが、前イベからの流れを踏まえるとまだ友人関係の話続けるんだ?というのが第一感でしたね。
この「友人との関係」というテーマは前イベ『STEP by STEP!』の記事でも書きましたが、はモモジャンのキースト+モモジャンバナーの混合イベでずっとやられてきた話で、『STEP by STEP!』でNEXT演出やってひとまず一区切りつけて落ち着いたのかなと思っていたので…。
maisankawaii.hatenablog.com
読み味はかなり異なりますが、おおまかな内容として異常者(言い方)が一般の友人との関係を築くという形は『船出の前のワンデイトリップ』でやった話と大筋近いですしね…。
ただ、前記事でも触れたように、直近のモモジャンイベの流れで「雫にとっての友人関係」の話だけなしでNEXTしてしまったなとは思っていたのでこのイベントで雫と司の友人関係という過去が回収されたバランス感覚は律儀だなと感じました。

なんでしょう、3周年につなげたいテーマなんですかね、友人との日常…。結構このテーマをステージパフォーマンスに繋ぐの難しそうではありますけれど…。
改めて最近のイベントを考えるとモモジャンの「友人か仕事か」というテーマはニーゴ(というかまふゆ)のイベントが直近で続けている「仲間・サークル(友人)か学業か」に対応していますし『隣に立つ、優しいあなたへ』も「仕事の中で支えてくれる友人の存在」で結構近いテーマを描いていたと言えるのかもしれません。
そう考えるとワンダショのイベの目下の問題としてある「ワンダショか世界か」も友人(仲間)と仕事(夢)に対応してるといえばそうかもしれませんし、この辺がきれいに今イベの類の変化とつながったらアツいなと思います。
ビビバスレオニもこじつけようと思えばできそうですが、今のところは全ユニットでやってる話としてまとめるほどしっくりはこないですね…。あと2ヵ月でどうなるかといったところでしょうか。
とりあえず3周年予想の話はこのへんで置いておいて、今回のイベント自体を見ていきましょうか。

これまでの神代類について

今回のイベントは一言でいえば「類がショーを通さずに友人と過ごす楽しさを自覚する話」でしょう。

これまでの類バナーのイベントストーリーでは、ショーの中で自分の演出を受け入れてくれる人を描いてきました。
『全力!ワンダーハロウィン!』では類の全力の演出を受け止めてくれる司を、『Revival my dream』では類の演出を理解できなかったクラスメイトと受け入れてくれた仲間たちを、『白熱!神高応援団!』では類の演出に応えてくれた応援団たちを、『カーテンコールに惜別を』では類と共にショーをしたいと誘った旭を…といった形です。
類と彼らをつないだのはショーの中での演出家という役割でした。ショーは人と人との間に存在するどんな垣根をも越えてくれる、『Revival my dream』で描かれた類のオリジンであり、演出家としての夢であり、今までのイベントストーリーで類はそれを体現してきたと言えます。
ところで、『Revival my dream』で描かれたショーに出会う前の10年前の類のことを覚えているでしょうか。少年類は自分の好きなロボットや生物の話をしようとするも誰にも理解されないことに悩んでいました。

先生もクラスの子も、僕はみんなと違うって言うんだ

そんな類に、類の母親はかつて変人だった自分もロボット工学を研究する父親に出会えたことを「自分の好きなことを大事にしていけば、いつか類にもちゃんと仲間ができるよ」と語っています。
そして類はショーと出会い、同年代の寧々と共通の話題が出来、一緒に楽しみ楽しませることができたという成功体験を得るわけですが、そもそもその前に「ロボットの話が同年代の子に通じない」という悩みが描かれていたわけですね。

それを踏まえての今回のイベントです。類のクラスメイトの三宅くんが類と話をしたがった理由は「ガジェットが好きで類の作るドローンに興味があったから」なんですよね。10年という年月を経てクラスメイトたちの興味がちゃんと10年前の類に追いついているんですよ。演出家神代類ではなく、単純に機械が好きな友人、自分の好きなものの話が通じる相手としての存在があったんです。
その上で、三宅たちは最近まで類に声をかけない方がいいと判断していました。それは類自体がドローンで遊んでいるときに「ちょっとつまらなそうな顔をしていた」であり、この近寄りがたさは類自身にもロボットの話が通じる相手はいない・人から外れた存在である自分と他人を繋ぐことができるものはショーしかないという拒絶・諦めの気持ちがあったからではないでしょうか。

そんな類に三宅たちが声をかけられるようになったのは類が笑うようになったからです。その変化を与えてくれた司という存在を見ていきましょう。

天馬司が見せるショーについて

類が他人とつながるにはショーしかないという話をしてきましたが、このイベントの冒頭で描かれたように類自身の興味もショーにしか向いていませんでした。
修学旅行に乗り気でない類に司は修学旅行をショーに例えて楽しんでみたらどうだと提案します。

その、いつでもショーを愛する心は尊敬するが、たまにはそれ以外のことも楽しんでみたらどうだ?

これは類が他人を楽しませること、他人に理解される成功体験として体育祭の演出をはじめショーが唯一のものであったのと反対に、司は咲希をはじめとした友人たちを楽しませるためにこれまでショーだけでなくあらゆる手段を拾い上げ、友人たちと共に自分も学園生活や行事を楽しんできたという成功体験に裏打ちされたものでしょう。

この司の「どちらも楽しむ」性質は雫と司の過去エピソードからもうかがえます。
ごっこもかくれんぼのどちらかではなく、両方を盛り込んだショーをするという話です。
これを類に当てはめると、ショーだけでなく他の遊び・友人との関係・修学旅行も楽しんでみたらどうだという話ですね。

『Revival my dream』で描かれた幼少期の類は他の子たちの遊びを遮って自分のやりたい・子供に通じない大人びた遊びや話を押し付けてうまくいかなかったわけですが、今回の大富豪やら枕投げなど明らかに「ショーとは関係のない幼稚な遊び」をしているのは類が子供らしい・高校生らしい遊びに歩み寄った形であり、それを類が全力で楽しめているのはこの歩み寄りが友達作り・相互理解に必要だったものという話なんですよね。

だから……オレがどうこうじゃなく、お前自身の選択があって、今があるのだと思っているぞ

そういった意味で、最初に類に声をかけてきたのは三宅でしたが、エピローグの枕投げで類の方から三宅に声をかけて仲間に誘ったのも歩み寄りであり、対等なクラスメイトとしての友人関係で良かったと思います。
今回のイベントは”今”の神代類を描いたものではありますが、過去の類に足りなかったものは何だったかという幼少期のリベンジとして見るのも面白いのです。

この過去エピソードの対比は類と司の性質が色濃く出ていて良いですね。類は自分が拾い上げたものを他人に与えたい表現者で、司は他人が求めるものを拾い上げるタイプの表現者だと思うので…。

(……いや。そもそもの考えかたから違うのかもしれないな)

メインストーリーで強引に共演を阻む類を拾い上げた司も今思うと懐かしく、類らしさと司らしさが出ていた話だったと思います。

百鬼夜行パレードが描くものとは

さてこのイベントストーリーは類がショーから離れて友人との関係を築くエピソードだという話をしてきましたが、最後にそのイベントの中で描かれたショー、百鬼夜行パレードの話をしていきましょう。

百鬼夜行パレードははぐれてしまった類と雫が司たちに見つけてもらうために仮装をするという展開ですが、はぐれる前の芸能神社に向かう過程で類と雫に共通して描かれたエピソードとして自分の興味のあるものに引っ張られてはぐれかけ、司と愛莉に連れ戻されるという展開がありました。
この「はぐれた2人」「妖怪」は自分の興味のあるものに惹かれすぎ、普通の人から浮いてしまい対人関係の構築がうまくできなかった過去の類(とチアデ時代の雫)が司(愛莉)に見つけてもらえたことのメタファーであり、そして今回新しく結ばれた友人たちとの絆なわけですが、ショーと関係のない人間関係もいいよねという話をしてきたここで「人の輪に戻る」ための問題解決する手段がショーという展開はめちゃくちゃアツいです。

できれば僕は、今日のメンバーでフィナーレまで迎えたいと思うんです

やっぱり神代類にとって自分と人をつないでくれる(見つけてくれる)のはショーなんですよ。さらに変わらないメンバーでフィナーレまで、修学旅行のメンバーという意味だけでなくワンダショのメンバーにかける類の想いを乗せているのも上手いです。

ここで雫の仮装に必要だったものが羽織なのも完璧ですね。「衣装が雫を支えてくれる」「衣装による別人への変身」は雫のイベントストーリーで描かれてきた要素ですが、ここでそれを引き出すことを可能にしたのが演出家という類の役割なんですよね。雫の衣装と類の演出、どちらも今までのストーリーで共通して描かれたモチーフとして「魔法」があるのも良いです。

ていうか、あの女の子どこかで見たことあるような……?

今回のイベントストーリーのキモは「ショーと関係のない人間関係」だという話をしてきましたが、結局"今"の神代類にとってショーはその上でとても大きな存在で、しかし今回のイベントでの司の発言で「修学旅行」を一度きりの公演として「ショー」と同一視したことで、なんだかんだ「ショーがつないだ人間関係」でもあるように落とし込むことで類が修学旅行を楽しんでいたのは本当にいい話なんですよね。なぜならそれは類を支えてきたショーの否定にならない優しい世界で、そして類がショーに願う信頼、人と自分を繋いでくれる存在という頑なな夢と想いを損なわないもので…。

そういった意味で最後の記念撮影は類にとって修学旅行という一度きりの公演におけるカーテンコールのようなものだったのかもしれませんね。

――たまにはこういうのも、いいんじゃないかと思ったんだよ(類)

一度きりの公演、一度きりの修学旅行。一期一会な百鬼夜行、そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

イベント読んでた時は細かい部分忘れてたんですが、改めて整理してみると『Revival my dream』の幼少期類との対比がバチバチに面白いイベントでしたね…。

ところで迷い子といえば当然今回影の薄かったまふゆですが

彼女は類や雫のように誰かに見つけてもらえるのでしょうか。
おわりだよ~。

プロセカ『STEP by STEP!』感想・読解みたいなやつ

『STEP by STEP!』感想読解書くぞ!

このイベントの位置づけについて

さてイベントの話をしていく前に、少しこのイベントの位置づけについて整理しておきましょう。

このイベントはモモジャンの進級前ラストイベントということで複数のイベントストーリーからの流れを汲んだクライマックスという形になっています。
前モモジャンイベスト『Re-tie Friendship』はみのりの転科という話を受けてのストーリーですので、順番は逆ではありますがむしろみのりが主役のこのストーリー『STEP by STEP!』が大きな流れとしては本筋で『Re-tie Friendship』がその話を受けた外側、裏側を描いたイベントと見るべきでしょう(もちろんこれは大きなストーリーの流れとしての話であって、愛莉というキャラクターにフォーカスした場合はみのりの話が裏側になります)
そして『Re-tie Friendship』の流れを受けた前混合イベ『船出の前のワンデイトリップ』で描かれた遥と1-Cの友情が、今回のイベント『STEP by STEP!』の後半部分にそのまま合流する形になっています。

直接的な前後編ではなく、時系列順に3つのイベントが並んでいるという形式でもないので多少変則的な構成ではありますね。

モモジャンのアーティストとしての山場は一旦ワンマンイベント『拝啓、あの頃のわたしへ』(2022/10/12~)でひと段落しており、そこからが進級前イベントの流れだったと考えると、仕事を増やすこと・想いは変わらない想いを示した遥の『あの日の夢の、彼方向こうへ』を挟んで『弓引け、白の世界で』で踏み込めない・忙しさの中に存在する雫とまふゆの絆(日常)を、『ほどかれた糸のその先に』で雫と疎遠になってもわずかに残ったアリサとの絆を、『Re-tie Friendship』で愛莉と友人の絆を、『船出の前のワンデイトリップ』で遥がこれまで向き合ってこなかった友人との「普通」を、そして『STEP by STEP!』でみのりの普通・友情と変わらない想いを描いたと改めて振り返ると、わりかし一本筋が通った流れだったんじゃないかと思います。
モモジャンクライマックスなのに雫だけ今回の流れに絡んでなくない~?とはプレイ中思っていましたが、こうして整理してみると雫の『弓引け、白の世界で』がこのイベントの「忙しい中でも大事にしたかった友情と日常」の流れであり、『ほどかれた糸のその先に』も「消えずに自分の力になった仲間との友情と思い出」とちゃんと重ねられる位置づけのストーリーだったことがわかりますね。
混合バナーがめちゃくちゃキーストーリーの流れに絡んでいるプロセカ、奥が深すぎる…。もう全部のイベントにキーストーリーって表記つけたほうがいいですよ。

花里みのりが得た「アイドル」

『船出の前のワンデイトリップ』の遥は普通の学生であるみのりと対比されたキャラクターであり、その「普通の学生」と「アイドル」の背反性がイベントの中で否定され、アイドルであっても普通の友情は持っていいしその友情は忙しくても消えないみたいな話をしている、という話は以前に書きました。ここは『Re-tie Friendship』の愛莉も似たような話ですね。
maisankawaii.hatenablog.com


で、今回のイベントは「アイドルである遥・愛莉が普通の学生のような友情を持つ・取り戻す」、という方向と逆で「普通の学生であるみのりが普通の学生ではないアイドルになり学生生活を捨てていく上での友情」、という話です。
結論から見れば今回のイベントでもみのりは遥や愛莉たちと同じ「友情は消えない」という結論に達するわけで、二番煎じといえばそうかもしれませんが、方向性が逆なのに結論が同じになるのは冷静に考えるとすごい話…というか違う話ではあるんですよね。『船出の前のワンデイトリップ』での「普通の学生」と「アイドル」の友情の根拠となったのは「普通の学生もアイドルと同様に忙しい」という「普通」の平等性・対等さでしたが、今回のイベントでのみのりというキャラクターが最初に示したのは「仕事も友達も両方選びたい」という、対等さのイメージからは反対の、全てを拾い上げられないか・全てを拾い上げてみせるという強欲な精神性であり、これは「普通」ではない「アイドル」としての思想を思わせます。アイドルというイメージの持つ万能性であり、花里みのりとモモジャンという理不尽に対して諦めず全てを手に入れてきた過去に裏打ちされた思想です。

学校も友達も諦めなくていい方法があるなら、それが一番いいはずだもんね……!

単位制の情報を自分で集めて結論を出し、両親と対話する姿も良かったです。
しっかりと相手を説得するための材料を用意してプレゼンする、これは親子の話であり被扶養者が扶養者に筋を通すという関係だけではなく、1人の社会人として自分の道を自分で選ぶという、社会人同士の対等な対話でもあるんですよね。
このへんは両親と正面から向き合っての対話ができていないまふゆ・冬弥・絵名(・奏)あたりであったり、前イベント『Light Up the Fire』でようやく1人の人間として認められ秘密を告げられたビビバスの杏たちと比較してモモジャンというユニット自体が子供ではない「プロ」として親に認められ一歩先に行っている感覚がありましたね。ここにも「普通」を逸脱し「アイドル」となっていく姿があります。

そこまで考えられているのなら、もう俺から言うことはないな(みのりの父)

「夢の続き」、『Light Up the Fire』でも出てきた単語です。今回のイベントでみのりの両親の子供に対する信頼・応援の気持ちが描かれたことで、『Light Up the Fire』でまっすぐ言語化されていなかった謙や凪が杏にかけた気持ちが補強されたのではないでしょうか。

花里みのりが失っていく「普通」

夢を追うために単位制に進むことを決めたみのりは、残りの時間を過ごしていく中で何気ない日常が自分にとって大事なものだったことに気が付きます。
この日常を拾い上げて胸に刻んでいく描写は良かったですね。どんなファンのコメントも拾い上げて1人1人に真摯に向き合ってきたモモジャンのストーリーがあったからこそ、道端の花1つ1つに想いがあり、そして友達1人1人にも真剣に向き合ってきたことが感じられました。

そしてその大切だった日常が、普通科の学生としての生活が1つづつ消えていく、消していく描写の1つとしてバイトの退職があったわけですが、失われていく日常・思い出の流れが咲希の提案で遊び場に行って思い出を作るという新たな、そして最後の「友人たちとの日常」描写としてキャンセル・反転したのは良かったです。

ふたりが単位制にいっちゃったら、こうやってみんなで一緒に遊んだりすることも少なくなっちゃうってことだよな~って思って

ケーキを食べたり、スポジョイパークで遊んだり、ゲーセンに行ったり、特別でもなんでもない「普通の学生が放課後普通に遊ぶこと」がみのりと遥にとっての「最高の思い出」として刻まれたのは良かったですね。

みんなと一緒に遊べたこと、一生の宝物にするから!

遥や愛莉のイベントストーリーでは失った側として「疎遠になっても友情は不変でありまた遊べるし続けていくことができる」という未来への希望が語られましたが、今回のイベントストーリーで描かれたのは「友情は不変であるが疎遠になる前の”今”が最高だった・この思い出と共に先に進んで行ける」という普通の学生として歩んできた、何も失ってこなかったみのりの日常・友情・思い出・過去といった普通科の学生生活への別れを拾い上げていて本当に良かったです。
「普通」の思い出を「最高」として昇華しているのは花里みのりのアイドル性ではありますが、それは誰でもどこかに持っている友情・「普通」の気持ちでもあるんですよね。モモジャンというアイドルが届ける希望を受け取るという行為を成立させるのはファンの共感なので…。

そして最後にその最高の思い出として刻まれた友達との絆・ここまで歩んできたモモジャンの仲間との絆をバーチャルシンガーとの絆としてつないだのはちょっと強引な気もしますがそれでも良かったですね。
このバーチャルシンガーとの絆というのはボーカロイドとの絆とも読めて、ボカロ曲・音楽が離れていても・見えなくても・非実在であってもずっとあなたを支え繋ぎ応援して導いてくれるという話でもあるんですよね。これは別にこのイベントが特別そういう話をしてるわけではなくプロセカが常に描いてきた芸風ではあるのですが、「思い出の肯定」がテーマにあったこのイベントにおいてボカロ曲・音楽があなたに与えてくれた感動が・曲1つ1つを聞いていた日常があったからこそ我々は大人になっても・社会に出ても・音楽から離れても先に進んでいけるという印象を感じさせてくれました。
まあ私は別にボカロ文化と共に青春を生きてきたような人間でもないのでなるほどね~といった感じではありますが、こういう芸術があなたの人生の支えになるみたいな話めっちゃツボなので好きですね。

これまでの思い出・過去1つ1つに感謝をもって先に、STEP by STEP!。そんな感じでどうでしょうか。

おわりに

いや~いい話だったね~と思いつつもメインに描かれたのは普通の日常の尊さというテーマで、最後にMV出てくる集大成のクライマックスイベントとしてはちょっと盛り上がりに欠ける印象はあったかな…。とはいえワンマンがあの熱量でしたし時にはこういうタメを作っておいて次の流れで一気に爆発させるのも良いでしょうと思えるくらいにはプロセカのシナリオを私は信頼してますよ。

いよいよサービス3周年・進級し学年を重ねた2年目のモモジャンがどうなっていくかに期待しています。

おわりだよ~。

ぼくも基本的に感想「良かったですね」しか言えてない(語彙力ゼロ)

プロセカ『Light Up the Fire』感想・読解みたいなやつ

『Light Up the Fire』感想・読解書くぞ!

雑感

いや~~~~重かったね~~~~~。
『RAD WEEKENDの空気を作り出したのは何だったのか』というもう最初期から3年近くストーリーの中心にあった問いの解答がようやく回収され、古瀧凪をはじめRADderの過去も明かされるってストーリー的にバリバリ重要なイベントでした。そして構成的にも今までビビバスのイベストで『THE POWER OF UNITY』(2022/05/20~)以降出番はありつつも遠野新以外は掘り下げがあまりなく、サブキャラクターたちで何を描きたいのかが漫然としてつかめなかったのが、サブキャラ陣にフォーカスして「挫折」という内面を描くことで彼らの人間性を見せたことで、一気にストーリー上の役割を持つキャラクターとしてかっちりハマって魅力的になったのがとても良かった。まあ現状彼らの行方はいかにという感じですが…。

そしてその絶望的な空気の中でも折れないビビバスという挫折と失敗から何度も立ち上がってきたユニットの芯の強さと大河の想い…とにかく今回のイベントは見ていきたい部分がありすぎますね!というわけで読解やっていきましょう。

古瀧大河は何がしたかったのか

……すみません。まだ、大河さんが何をおっしゃりたいのか理解できないので……、もう少し詳しく教えてもらってもいいでしょうか(冬弥)

今回のイベントは唐突に告げられる凪の死、そして大河とのバトルで始まります。
その唐突な展開に杏たちはついていけませんでしたが、今回のイベント後半の過去回想で大河がバトルを挑んで杏たちをボコボコにした理由は大体明かされていると思います。

ここを読む上で多少複雑なのは、大河が杏たちのために動いている思惑は「2つある」という部分です。
もちろん1つは凪が生前語り、謙が継いだ「自分たちの音楽に影響を受けた次の世代が育ち、RADderの先を進んでいってほしい」という遺言。そしてもう1つは大河自身の想い「自分たちの音楽を必ず世界一にする」、つまり次の世代にRADderを超えさせない、「古瀧大河」こそが杏たち「次の世代」ではなくRADderの先を継ぐ存在だという凪の想いと一見矛盾した想いです。
この2つの想いは一見矛盾していますが、どちらの想いにしても大河がやることとしてはシンプルでRADderの代表として歌い実力を示すだけです。

次の世代がRADderに影響を受け、先を進むには、RADderの音楽を生でまだ聴いたことがないこはねや冬弥たちにもRADderの歌を聴かせないといけないですし、子供のときに聞いた”憧れ”としての歌と超えるべき”壁”としての歌は違うものでしょう。

俺は――知りたい。俺と……俺達と、RAD WEEKENDに、どれだけの差があるのかを

そしてRAD WEEKENDの続き、「RADderの先を進むものは次の世代ではなく自分だ」というある意味大河が凪や謙が次の世代にかける夢を否定するための歌でもある…というにはまだ実力差がありすぎるわけですが、未来のライバルに対して自分の実力を示す歌でもあるのではないでしょうか。

要するに2つの想いが矛盾・相反する…というよりは大河は凪や謙の「次の世代が自分たちを超えていくのを見たい」というのを一旦受け入れた上で、その「次の世代」より自分の方がRADderを継ぐものとして正当だとして否定したいという想いがあるわけです。そしてそれには、そもそもライバルとなる「次の世代」が自分たちを超えていることが必要で、杏たちはまだその土俵に立ててないから力を貸しているのではないでしょうか。

物は言いようだろうが。凪、お前はここでお前の夢を、俺達の夢を、他人まかせにしていいのかよ

この辺の大河の心情はどちらとも取れますが、ビビバスがここまで描いてきたこの街の文化として、「強い相手にバトルすることで成長してきた」があるので、バトルを仕掛けること自体がライバルに塩を送る行為ではあるんでしょうね。

で、もう散々先にその話をしてしまっているんですが、そもそもこのイベント時点での二段階覚醒した杏を含めたビビバスは、もう大河の認識ではRAD WEEKENDでの大河を超えてるんですよ。まあ「RAD WEEKENDのRADder」ではなく「RAD WEEKENDの大河」という微妙なラインで予防線は引かれていますが…。

(俺達の夢を、こいつらに見せる。……お前達も、それを望んでるだろ?)

だからこれはビビバスがずっとやってきたRAD WEEKENDを超えるって話ではもはやないんです。RADderの想いを継ぐものはどちらか、それがRAD WEEKENDで見せた凪+謙vs大河というバトルであり、その夢の続きとしてビビバスたちが巻き込まれてきているという話でもあるんですよね。

古瀧凪と「街」と「ボーカロイド文化」

続けて凪の話をしていきましょう。
自分の死を覚悟した凪が最後に願ったのはこの街で歌うことでした。

これは乱暴に一言で説明してしまえば”継承”の話です。
街で歌を教わり、街で歌い、そして街で歌を教えて次の世代に繋いできたというこの街の永遠性。凪は最後に街で歌うことで次の世代に自分の夢をつなぎ、そして街の中で語り継がれることで永遠の存在になろうとしていました。
そういう意図は込められているのですが、まず凪が語ったRAD WEEKENDのコンセプトは「思い出のCOLで私達の青春をもう一度見せる」なんですよね。
RADderがユニットとして成功し売れている現在ではなく、最も熱かった青春時代の再現。歌による過去の再現可能性の話であり、歌が時を超えて語られ続けること。それは死をも超越した永遠の話でもあります。

ちょっとイベントストーリーの内容からは離れてしまうのですが、このへんの時の超越、「忘れられない・記憶に残してほしい歌」「永遠に続いてほしい歌」みたいなテーマってボーカロイド曲…というかボーカロイドのキャラソンイメソン(?)でわりかし頻出のテーマだと思うんですよね。
私は全然ボカロ曲に詳しくないのでそうでもねえよって言われたらすまんなんですがプロセカ実装曲で挙げるなら『ラストスコア』の「何百何千何万年も枯れぬ命に」とか『Meteor』の「この歌をこの声を ずっと忘れないでいてね」とか『ヒビカセ』の「覚えていてね 私の声を」とかそうじゃないですか。『初音ミクの消失』の「名だけ残る」とか今回の凪も言っていましたよね。

杏達が歩く、次の世代が歩く――そんな未来を、一緒に見たいんだ

「私が消えても歌は消えない」もそうなんですが、逆に「作曲者が死んでもボーカロイドが歌い続けていく」みたいな曲も多いですよね。ボカロ文化の継承テーマ。
やっぱりプロセカってボカロ文化に対するリスペクトの強いゲームですから、こういう「曲に影響を受けて次の世代が活動する」だとか、「ずっと語られ続ける存在」みたいな話はボーカロイド文化を意識した話づくりで、そのボカロ文化こそがビビバスが描く「街」なのかなと感じましたね。「歌を教わる・教える」もいわゆるボカロ文化における「調教」みたいなところありますし。

そのボカロとの重なりを思うと、今回のイベントでラストまでバーチャルシンガーたちが絡まず、最後の杏たちの凪へのメッセージを別の世界で見守っていたその姿が、人間の歌を語り継いでいくものとして、そして「空の上から見守っている」という表現をした凪も同じように見守っているのかもしれないと、死後の世界を明言せずとも思わせてくれて良かったですね。

言いたいこと……いっぱい、あったのに……っ

なんというか今回の話ってどんな思惑があったにせよ街の人も大河も凪も杏を騙してきたわけで、それが酷いことだって一面はどうしてもあるんですよ。
杏に歌が好きなまま真っすぐ育ってほしかった、倫理を差し置いてでも歌を続けて欲しかったという願いの話で、どんだけこの街の人間は歌のことしか考えてねえんだって話ではあります。でもその結果として、事実として杏は歌が好きなまま真っすぐ成長し、凪の死を受け止めた上で、改めて歌いRAD WEEKENDを超えることしか見ていない。
ビビッドストリート、マジで歌を中心に全ての思惑が回っているセカイなの、本当にどうしようもなくて、でもそんなどうしようもない街だからこそビビバスというユニットが、杏というキャラクターが生まれ育つことができたんでしょうね。

Vivid BAD SQUADとサブキャラクターたち

さて主役となる「次の世代」たちの話です。
彼らは大河さんにぼこぼこにされ心折れるわけですが、遠野新から見ていきましょう。

彼の問題点は大河が言ったように相棒だった颯真の夢を意識しすぎてきちんと街、オーディエンスを見れていないこと…ではあるのですが、整理するために必要な要素としてRADderの過去回想でわかりやすく描かれたテーマ「夢≒他人の期待を背負うことの否定」があります。

「街を見ること」の話は今までのビビバスのイベントで描かれてきたように、「他人の期待に応えたいという自分の想いをきちんと見つけること」…みたいな話ですよね。この辺の話は以前の記事でも書きました。
maisankawaii.hatenablog.com
今回のイベントでも大筋でそこは変わっていないかと思うのですが、フォーカスしてる部分が多少異なっていて、「他人の期待を自分の中で他人のための想いではなく自分のための想いとして変換できているか」になっているんですよ。この辺は大河の項でも書いたように「外から見てやっていることは同じでも他人の期待と自分の想いは異なる」って話ですよね。

前は街を見ろ……って言ったが、そのためにはまず、お前がお前自身を見る必要があるな

大河が新に対して2度言った「お前のために歌ってんじゃねえか?」私は最初「ちゃんと背負え、お前のために歌うな」という反語の意味合いととらえていて、新自身ももそうとらえていたでしょう。ですが話を整理していくとおそらくこれは「背負った上で颯真のためでなくお前のために歌っていることを自覚しろ、つまりお前のために歌え」というそのままの意味の激励なんですよね。大河がRAD WEEKENDで凪のためでなく自分のために歌い続けることを決め、謙は同じ思いを背負っても違う想いを抱いたように。いや~めんどくせえ!でもこの辺の言葉の足らない部分がプロセカ読解やってて一番面白いところだと思います。

「他人の夢を背負うな」という目線で見ると颯真の夢と自分の夢をきちんと切り分けられていない新はまだまだといったところであり、「RAD WEEKENDを超えるためのイベントをやる」という「ビビバスの夢」で集められたメンバーたちもまだきちんとそれを自分だけの夢として咀嚼できていなかったのかもしれません。

ずっと……ズルズルここまできちまったのが……良くなかったのかもな……

それにしても三田洸太郎の独白は良かった…。大河から見たら全然足りないのでしょうが、泥臭くズルズルここまできた三田の頑張りと輝きを我々プレイヤーもビビバスメンバーたちもきちんと見てるからよ…。
他人の夢を背負うことについてはこはねや冬弥も同様ではあるのでしょうが、彼らはその中で自分の夢・目標としてそれなりの解答を今までのイベントで出していますからね。

この「他人(の夢)を背負って歌うな・お前自身(の夢)を自覚しろ」を意識すると今回のイベストかなり読みやすくなります。実はこれって今までのビビバスで、特に杏のイベストで最初から描かれてきたテーマですよね。一番最初のイベスト、『いつか、背中合わせのリリックを』(2020/11/30~) ではこはねを背負おうとして失敗しましたし、ちょうど今ガチャ復刻している混合イベ『青空に願うユアハピネス』(2022/05/31~)でも他人を意識してるとダメでありのままの杏に一番魅力があるという話をしていました。

(本能で――直感で歌うんだ!考えてちゃ絶対、大河おじさんには通用しない。するはず、ないんだから――!)

やっぱり杏というキャラクターの魅力は、この何も背負っていない、自由に歌が好きだという素の想いだけで歌っているときが一番強いところなんですよね。
RAD WEEKENDは凪の最後のイベントではありましたが、凪が爪痕を残すためだけの生前葬としてのイベントだけではありませんでした。ただ熱く盛り上がり、それだけで若者たちが自分たちの夢を持ち、謙も大河もその中で自分が抱くべき自分自身の夢を見つけたという要素こそが重要だったわけで、この辺りは杏が余計なことを考えず純粋に歌を愛するスタンスに通じていると思います。

「死を受け止める」で止まらず、「死を受け止め、乗り越え先に進む」という答えで、しっかりと今回のイベントで凪の死を受け止めた杏が改めてRAD WEEKENDを超えるという自分の夢を再認識したところは良かったですよね、まあバトル中はダメでしたけど…。

私のこと、ちゃんと話してほしいな

杏が強くなったら話してほしいという回想部分も良かったです。守られた子供としての存在でなく一人前の、凪の死を乗り越えて歌っていけるとして大河が杏を認めるところまできたという話なんですよね…。
作中の杏たちの視点では大河は「子供に本気を出す大人げない大人」として描かれとらえられていましたが、なんのことはない、一人前の対等な存在として認めたからこその”本気”だったという話です。

タイミングの話をもう1つ、大河が街を離れてアメリカに帰る前の最後のバトルというのも凪の別れの前の最後のRAD WEEKENDと重なる内容ではあります。自分が去っていく前に次の世代に何を残せるか、みたいな回りくどい考えは意識はしているのでしょうが、やはりRAD WEEKENDのように本気で音楽でぶつかることでしか伝わらない、決められない、自分だけの夢は見つからない、みたいな経験上の結論を抱いてのバトルではあったのでしょうね。

そしてサブキャラ陣が折れていく中で揺らぐことがなかったビビバスメンバーの強さですよね。
これまでのイベストで何度も高い壁にぶつかり、それでも立ち上がってきたという過去に裏打ちされた彼らのメンタルの強さには納得がありました。
凪が灯した火を受けて、さらにサブキャラ陣にも火を灯していく。継がれていく継承の火。Light Up the Fireというわけでそんな感じでどうでしょうか。

RAD WEEKENDを――超えよう!!

おわりに

いや~長くて要素多い上に難解!記事に書きたいことありすぎてちょっと取っ散らかってしまった気がしますね…。
内容としてはシンプルにボコされたけどまた立ち上がりましたってだけの話ではあるのでついていくのは簡単だとは思うのですが、ここからサブキャラ陣をどうやって再起させるのかは気になるところですね。
おわりだよ~。

じゃあね!